FC2ブログ

松山市の指定史跡

愛媛県松山市には、4ヶ所の国指定史跡と3ヶ所の愛媛県指定史跡があります。
県外の方や、地元の方でもまだ見たことない場所があればぜひ立ち寄ってみてください。

(1)国指定史跡
1)久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)
松山市来住・久米地区にあり、法隆寺式伽藍配置を持つ白鳳期の古代寺院跡として、昭和54年に国の史跡指定をうけました。
久米官衙遺跡と来住廃寺跡の2ヶ所で、弥生時代から古墳時代ころの集落遺跡としても重要です。
特に、弥生時代前期末から中期ころと、古墳時代後期の遺構が多く検出されています。
その多くが、弥生時代の貯蔵のための穴や住居、古墳時代の建物跡、溝などの遺構です。
①久米官衙遺跡(くめかんがいせき)
来住廃寺の北と西には、久米高畑遺跡が隣接しています。
ここでは、来住廃寺が建っていたころや、それ以前の時期の古代の役所(官衙/かんが)跡が多数確認されています。
主な施設としては、回廊状遺構、回廊北方官衙、正倉院、政庁、政庁南東官衙などが挙げられます。
基本的にこれらの施設は、一辺約110m(一町)四方の外郭施設で囲われた正方形の敷地の中に設けられ、敷地と敷地の間には、幅3mから4m程度の道路があったものと考えられています。
このように、土地を区画して利用していることが、この遺跡の最大の特徴です。
②来住廃寺跡(きしはいじあと)
1979年に国の史跡に指定された来住廃寺は、7世紀後半頃に創建された寺院の跡です。
1967年に塔基壇において調査が行なわれて以来、周辺では、これまでに30次におよぶ調査が実施されてきました。
その結果、金堂基壇のほかに、講堂、僧坊、溝などの遺構が検出されています。
しかし、金堂の他の施設はいずれも残りが悪く、決定的な証拠が少ないのが現状です。

2)葉佐池古墳(はざいけこふん)
松山市北梅本町にある葉佐池古墳は、平成23年2月に国指定史跡に登録されました。
6世紀中頃に築造され、7世紀初頭まで追葬が行われた長さ41m、幅23m、高さ6mの長円形を呈する古墳です。
平成4年の発見以来、5次に及ぶ発掘調査を実施しました。
この古墳には5基の石室が築かれていますが、そのいずれもが未盗掘です。5基のうち、発掘調査された1・2号石室は横穴式石室で、盗掘を受けていないため最終埋葬時の形態をよく留めています。
1基の横穴式石室内で行なわれた数回の埋葬や古代の葬送儀礼「モガリ」を復元できるだけでなく、古墳の築造順序なども明らかになるなど、古墳時代後期の葬送儀礼がどのようなものだったかが研究できる素晴らしい古墳です。 
そして、埋葬施設や出土品が素晴らしいのが葉佐池古墳の特徴です。 

3)松山城跡(まつやまじょうあと)
松山市の中心部、勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城は、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名な七本槍の1人、加藤嘉明が築いた四国最大のお城です。
現在、国指定史跡に指定されているのは、堀の内を含む、本丸、二之丸、三之丸跡を中心とする城山公園全体で、本丸跡には天守、三の門南櫓、二の門南櫓、一の門南櫓、乾櫓、野原櫓、仕切門、三の門、二の門、一の門、紫竹門、隠門、隠門続櫓、戸無門、仕切門内塀、三の門東塀、筋鉄門東塀、二の門東塀、一の門東塀、紫竹門東塀、紫竹門西塀の21棟の建造物が国の重要文化財に指定されています。
門櫓・塀を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、攻守の機能に優れた日本一の連立式天守を構えた平山城と言われています。
松山城は、日本で12か所しか残っていない「現存12天守」のうちのひとつ、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つです。
平成18年に「日本100名城」、平成19年には道後温泉とともに「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。
また、日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸から本丸にかけてあり、「日本さくら名所100選(平成元年)」や「日本の歴史公園100選(平成18年)」の指定も受けています。

4)湯築城跡(ゆづきじょうあと)
松山市道後町にある湯築城跡は、中世の時代に伊予(現在の愛媛県)の守護であった河野氏が本拠地としていました。
平成14年9月に国指定史跡になりました。
明治に、道後公園が設置されました。
昭和28年に県立道後動物園として開園しましたが、砥部町に移転することとなり、愛媛県埋蔵文化財調査センターによってその跡地の発掘が行われ、多数の陶器、古銭類が発見されていました。
使い捨ての土器や陶磁器をはじめとした遺物は、ここが伊予の中心として守護所が置かれていた時代の繁栄を彷彿とさせるものでした。
1988年から始まった本格的な発掘調査により、湯築城趾南側の内堀と外堀に挾まれた地点から大規模な 遺構・遺物が発見されました。
外堀の内側の土塁に沿って石組みの側溝を伴う道路跡が見つかり、家臣団の屋敷とみられる建物跡も建ち並んでいました。
築地塀で区画された各建物には井戸や石段が付属しており、内部からは陶磁器の皿・碗などの生活資料、鉄砲玉などの武器類が続々と掘り出されました。
検出された遺構・遺物は大部分が戦国時代(16世紀)のものです。
また、中国や東南アジアなどから輸入された陶磁噐類も多数出土した。これまで戦国時代以前の城郭については、各地に遺構があまり残っておらず不明な点が多い中、戦国時代中頃という時期の大規模な堀・土塁が良好に残っている稀な遺構として注目を浴び、歴史的価値も高いものです。
松山市は近世城郭の松山城と、中世城郭の湯築城跡の二つを有し、しかもいずれも良好な状態で現存しています。

(2)愛媛県指定史跡
1)子規堂
松山市末広町、正宗寺(しょうじゅうじ)内にあり、俳人・正岡子規が17歳まで過ごした邸宅を模して建てられた木造平家建の建物です。
昭和23年10月28日に愛媛県指定史跡になっています。 
正岡子規(1867~1902)は、慶応3(1867)年9月、温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)で生まれましたが、まもなく湊町4丁目に転居、17歳で上京するまでここに住んでいます。
大正15(1926)年この旧宅の用材をつかい、柳原極堂の記憶に基づいて、子規の旧居を模して、正宗寺の本堂の傍らに建てられたのが最初の子規堂です。
その後、昭和8(1933)年に寺の火災で類焼し、再興されたが、同20(1945)年松山大空襲によって再び寺とともに焼失しました。
現在の建物は、旧宅の間取りを模して建てられたもので、総建築面積151㎡の木造平屋建、室内には子規が使っていた机や遺墨、遺品、写真など展示が充実しています。
埋髪塔は、明治37(1904)年子規の3周忌に正宗寺の住職仏海によりたてられ、拝石に彫られた子規像と文字は、下村為山の筆になるものです。
また、子規堂前の広場には、現存する最古の軽便機関車「坊っちゃん列車」があります。

2)一遍上人の誕生地
松山市道後湯月町の宝厳寺にあります。
昭和24年9月17日に愛媛県指定史跡になっています。
一遍上人(1239~1289)は、法名智真、俗姓越智氏、延応元(1239)年、河野通広の第2子として生まれました。
その地は現在、時宗宝厳寺となっています。
彼は早く母をなくし、そのため剃髪して仏門に入り、浄土宗や禅を学びました。
文永11(1274)年、時宗を開き、翌年熊野に参籠し霊験を得て、一遍と改名し、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた紙札をくばる賦算を始めました。
その教えは、踊念仏によって全国的にひろがり、一遍は遊行上人とも捨聖ともいわれ、民衆から尊崇され、一所不在、民衆救済の実践家として、鎌倉仏教史上に重要な地位を占めています。
正応2(1289)年、遊行中に摂津国和田岬観音道(のちの真光寺)で没しました。

3)荏原城跡
松山市恵原町にあります。
昭和25年10月10日に愛媛県指定史跡になっています。
荏原城跡は、昔は、松山市の南方、旧荏原村にあり、戦国時代の城跡として今日も名を知られています。
周囲に高さ5mほどの土塁を築いた方形の平地で、東西130m、南北120m、四周に濠をめぐらせ、南側に土橋で城外と連絡をとっています。
土塁の上にあった建物は不明であるが、四隅に櫓があったらしく、特に西南の隅に石積みがあり、櫓の存在が考えられています。
矢竹が植えられているのは、この時代の城塁に共通する特色です。
築城年代は不明ですが、建武2(1335)年、忽那氏が「会原城」で戦ったという記録が『忽那一族軍忠次第』にあり、築城はそれ以前と言われています。
この城は、河野氏の家臣平岡氏の居城でもあり、平岡城ともいわれ、天正13(1585)年、平岡通倚のとき、豊臣秀吉の四国征伐により落城しました。
その後、慶長5(1600)年、平岡善兵衛がこの城で河野氏再興をはかって失敗し、城は廃墟となって今日に至っています。
現在は、濠の一部分が崩壊し、土のう袋で応急処置を施しています。
管理が今ひとつ行き届いていないのが残念です。
スポンサーサイト



最新記事
カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
カウンター
検索フォーム
QRコード
QR