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千葉県の鋸山と日本寺について

千葉県に鋸山と日本寺があります。

鋸山(のこぎりやま)は、房総半島の南部、千葉県安房郡鋸南町と富津市の境に位置する山です。
標高は329.4mで、房総丘陵の一部分を占めていますが、内陸部よりも海岸線(東京湾)に近い山です。
鋸山は凝灰岩から成り、建築などの資材として適しています。
そのため、「房州石」と呼ばれ、良質石材の産地として、江戸時代から盛んに採石が行われました(石切場跡は現在も残存しています)。
その結果、露出した山肌の岩が鋸の歯状に見えることからこの名で呼ばれるようになったそうです。
鋸山の正式な名称は乾坤山(けんこんざん)というそうです。
乾坤は天地の意味で、江戸時代には谷文晁さんが日本名山図会において日本80の名山のうちに数えたそうですが、深田久弥さんが改めて日本百名山を選んだときに選に漏れ、現在では名山という認識はあまり広まっていないようです(小林泰彦さんが選んだ「日本百低山」には入っているそうです)。
眺望は素晴らしく、東京湾一帯から伊豆大島まで見渡すことができます。
また近隣の安房三名山「富山」「御殿山」「伊予ヶ岳」を臨むこともできます。
鋸山にある日本寺は、今から約1300年前、聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けた行基菩薩によって神亀2年(西暦725年)6月8日に開山されています。
開山当初法相宗に属し、天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至っているそうです。
日本寺は開山当時、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模を誇り、良弁、空海、慈覚といった名僧が留錫(りゅうしゃく)したと記録されているそうです。
良弁僧正は木彫りの大黒尊天を彫られ、弘法大師(空海)は100日間護摩を焚かれ石像の大黒尊天を彫られました。
そして、仁王門の金剛力士像は慈覚大師の作と伝えられています。
1939年に登山客の失火による山火事で仏像や本堂を焼失し、さらに第二次世界大戦で鋸山が軍の要塞として使われた事もあり、当時の復興支援者の死去などで復興が遅れ、今なお復興中という状態となっています。
大仏や階段、幾つかの建築物の復興を経て、現在は本堂の復興が進められているところだそうです。
鋸山には「地獄のぞき」があります。
この「地獄のぞき」は、岩壁から一歩踏み出したような変わった地形で、高さはおよそ100mですが、切り立った大きな岩壁を見るとそれ以上に感じられるそうです。
近年では、パワースポットとして有名で、休日になると観光客で賑っています。
鋸山の地質ですが、新生代新第三紀中新世~鮮新世のころ、海底に堆積した火山灰からできた凝灰岩の山は前述しましたが、その地質構造としては、下図のように、上から順に、「竹岡凝灰角礫岩」「荻生火砕岩」「稲子沢泥岩」の3層になっています。
「竹岡凝灰角礫岩」は、、火山砕屑岩の一種で、火山砕屑物(テフラ)と呼ばれる火山灰や岩片などから形成された岩です。
構成する粒子や礫の大きさや割合によって分類され、軽石混じりの砂質凝灰岩が多いのが特徴です。
鋸山山頂付近に位置し、石質は粗く軟質で、淡褐色ないし黄褐色を呈し、質が均一で、霜や雨にも強く火にも変化しない性質があります。
「荻生火砕岩」は、火山の噴出物が堆積し固結してできた岩石です。
鋸山中腹以下や登山口石切り場に位置し、質が均一でなく、水や火にも弱いが加工しやすい性質となっています。
「稲子沢泥岩」は、主として泥岩からなり、うすい砂岩や凝灰質砂岩を挾む層です。
上層それよりも深部に位置しています。
この付近の石は、「房州石」(ぼうしゅういし)と呼ばれています。
これは、千葉県房総半島産の砂質凝灰岩の石材名で、鋸山産のものが特に著名で大規模に採掘されていました。
新第三紀鮮新世末期頃の上総層群下部の火砕岩なので「竹岡凝灰角礫岩」が主に採掘されていました。
大谷石に似ていますが、石材の性質は大谷石に劣っています。
耐火力が強いのでかまどの材料に好適で、土木工事などの捨石などにも使われていました。
駐車場から頂上までの150mほどの間には、鋸山で採掘された「房州石」の露頭も見ることができます。
また、ロープウェイの頂上駅には、『鋸山房州石資料館』があり、鋸山の地質や、「房州石」の採掘の歴史、道具、そして使われた建築物などの実物とパネル展示を見ることができます。
採掘の歴史として、
①室町時代
・安房・里見氏の出城(鋸城)で、柱のツカ石として使われました。
②江戸時代
・安政のころ、伊豆の石切職人が渡来し、鋸山周辺で建築用に石切りを始めました。(土丹岩)
・万延、元治、慶応のころになるとそれまでの悪い石(荻生火砕岩)から、質の良い石(竹岡凝灰角礫岩)の採掘が盛んになり、石切場も鋸山本峰に移りました。
・1859年、横浜開港に伴い、護岸工事や土木工事用として優秀性が認められ生産も大規模化しました。
③明治時代
・文明開化に伴い、房州石の需要はますます拡大し、京浜地方、特に横浜市、横須賀市の公共事業指定石材にもなり、金谷地区の総人口の80%が石材産業に従事していました。
④大正時代
・大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、多くの護岸が崩れ石積みの時代からセメント工法の時代に移ります。
(「房州石」の建築用材としても脆弱性を指摘する声もありましたが) 横須賀追浜天神橋護岸、横浜市高島桟橋護岸、さらに多くの石塀や石倉が今でも何の変状もなく現存しています。
⑤昭和時代
・セメントの進出により、「房州石」採掘も衰退し、さらに軍部の方針で、鋸山は登山禁止になりました。
わずかに、軍需用石材として、「荻生火砕岩」の採掘が細々と続けられました。
・戦後、採石も機械化され、一時パン焼きカマドなどに使用されましたが、昭和57年に採掘が中止となりました。
・採石場跡は、その奇岩、怪石とともに、その景観美は、国定公園として訪れる人々を楽しませています。

「房州石」の質は、一口で言えば”軟らかい”ことです。
これは、栃木県の「大谷石」など、凝灰岩に共通する性質です。
このため、「花崗岩」などの硬い石材と違い、採掘のため”発破(火薬)”などは使わず、石切場では、文字通り人力で”切り出す”採掘方法が長く続けられています。
切り出した石材は、”ネコ”と呼ばれる一輪車などで山を下り、平坦地から馬車やトロッコで港まで運ばれ、船積みされました。
昭和の時代に入ると、機械化され、ケーブル(鉄索)で平坦地まで下ろされた後トラックで各地に送られたようです。

参考までに、鋸山という山の名前は愛媛県にもあります。
愛媛県の鋸山は、標高1017mなので、千葉県の鋸山よりは777.6mも高い山です。
愛媛県四国中央市の翠波峰の西約3キロに位置し、法皇山脈の一ビークです。
やはり、名前のように鋸の刃のような緩やかな三角錐のピークの形状を示しています。
頂上付近は一枚岩が露出しており、眼下には四国中央市の街並みや瀬戸内海燧灘が眺望できるすばらしい眺めです。


この突起している岩盤からの覗きが「地獄のぞき」です。
切り立った大きな岩壁は危なっかしく感じます。
凝灰岩なので、亀裂が少ないから石を切っても一体化して安定しているのだと思います。

 
採石場跡の写真です。
採取された石材は、幕末から明治、大正、昭和にかけて、主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用されていました。
また、靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されているそうです。
自然保護規制の強化により1985年を最後に採石を終了し、現在鋸山は観光資源として利用されています。


採石場跡の断面図です。
江戸時代、質の良い頂上付近の「上石」である「竹岡凝灰角礫岩」を採掘したのですが、それらを堀りつくし、その後、下層の質の良くない「下石」である「荻生火砕岩」を採掘するようになりました。
下に、下にと掘り進むにしたがって、山の景観は、時代とともに大きく変化したようで、現在の鋸山の景観となったようです。


鋸山と日本寺の観光地図です。
ここへのアクセスには有料道路・ロープウェーなどで行けます。
地図だとそうでもないように見えますが、実際に現地に行ってみると中々道が入り組んでいてわかりにくいところみたいです。
案内看板は至るところにあります。
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