松山市の津和地島について

松山市には離島がたくさんあります。
この中で、今回は旧中島町から編入合併して松山市になった津和地島を紹介します。

津和地島とは(つわじじま)は、愛媛県、山口県、広島県との県境位置する島なので、松山市では市街地からは一番遠い島です。
かつては瀬戸内海の要衝として参勤交代に向かう諸大名を接待するため松山藩のお茶屋が港に置かれていました。
秋祭りには勇壮なだんじりや神輿が、威勢のいい掛け声とともに集落内を練り歩きます。
柑橘栽培が盛んですが、近年はイノシシ被害が軽減されるなどの理由から、玉ネギが多く栽培されるようになりました。
砂地で作る玉ねぎは辛みが少なく、生でもそのまま食べられるほど甘みが強いのが特徴だそうです。
また、ヒラメやアワビの養殖など漁業も盛んに行われています。
小学校は、松山市立津和地小学校があり、2015年度の児童2名だそうです。
伊予銀行のテレビ宣伝で、伊達公子が子供とテニスをしているところも出てきます。
ただし、この児童2名が今年卒業したので、平成29年3月31日をもって津和地小学校は休校となってしまいました。
中学校はありません。
瀬戸内海特有の少雨気候により水資源に恵まれていないため、飲料水の貯水と導水を兼ねた地下トンネルを建設しています。
表流水を自然流下で水をため、給水する仕組みだそうです。
平成22年の国勢調査では、人口 383人、世帯 184戸です。
私は、友人が何人かいたので、何回も行ったことがあります。
船から降りた瞬間、まるで時間が止まったような印象をうけました。
それくらい、島の人ののんびりとしていた様子が思い浮かびます。
歩いているおばあちゃんも、スローモーションで歩いているようにゆっくりで、私だけがせっかちに見えました。
でも、祭りに行ったときには別世界でした。
こんなにも、この島に人がいたのかと思うくらいの賑わいで、若い人もたくさんいました。
ただ、若い人は、祭りのときだけ帰ってくるみたいでした。

だんじりの写真
だんじりです。
秋のお祭りの時に、神輿と共に集落内を練り歩くそうです。
忽那諸島内でだんじりを引くのは津和地だけで、秋のお祭りは最も盛大に行われています。
以前は4台出ていましたが、現在は組ごとに3台のだんじりを担ぐそうです。
だんじりの上には子どもが4人乗り、掛け声に合わせて太鼓を叩きます。

お茶屋跡の碑の写真
お茶屋跡の碑もあります。
かつて瀬戸内海航路の要衝として、参勤交代に向かう諸大名を接待するための御茶屋が港におかれていました。
松山藩主の名代である八原家が常駐し、参勤交代の便宜を図るなどの功績をあげました。
現在、その跡地は保育所になっていて、その片隅にこの碑が建てられています。

平和の碑の写真
平和の碑です。
1945年 8月9日、呉から大津島へ航海中の第21号輸送艦がアメリカ機の空襲に遭い、それによって発生した火災が積載していた弾薬に引火、爆発。損傷した艦が津和地島の浜に突っ込み座礁しました。
身の危険をかえりみず、島民総出で救出活動をし、負傷者を小学校に収容し応急処置を行いましたが、63名が命を落としたそうです。
現在は防波堤ができ砂浜はありませんが、遺族や生存者が建立した碑が残されていて、地元の小学生が定期的に清掃活動をしているそうです。

洞源寺の写真
洞源寺です。
洞源寺は、1634年開山の曹洞宗の寺院です。
高台にあるため境内からの景色は素晴らしく、集落越しに怒和島まで見渡せます。
また、境内の奥には第21号輸送艦で亡くなった63名の名前が彫られた慰霊碑が建てられています。

導水トンネルの写真
導水トンネルです。
津和地島の地形は急峻で、地表は保水力の小さい花崗岩風化土で覆われ、河川が未発達で流量が少なく、水資源に恵まれていないため、日本初の貯水兼導水トンネルが建設されました。
島をほぼ南北に貫くこのトンネルの貯水量は12,000立方mで、島民の50日分と言われています。

旗山頂上付近から眺める島の西側の写真
旗山頂上付近から眺める島の西側の風景です。
今から40年近く前は、西側へと続いている道はありませんでした。
下の地図では続いているようなので、今は便利になったと思います。
まあ、40年前は車が走る道もなく、港付近に自転車やテーラーが走っているのみだったと記憶しています。

津和地島の位置
津和地島の詳細な地図です。
旗山の中腹に行ける道もあるのですね。
しばらく行っていないので、ずいぶんと変わっている景色が見られると思います。
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