魚島群島について

愛媛県の新居浜市から北方の海上約25kmのところに魚島群島があります。
広島県の鞆の浦からもそれくらいの距離なので、瀬戸内海にぽつんと浮かんでいるイメージです。

(1)魚島群島の歴史
この魚島群島は、2004年10月1日までは魚島村と言っていました。
芸予諸島に属し、魚島(うおしま),高井神島(たかいかみしま),江ノ島(えのしま),瓢箪島(ひょうたんじま)の4つの島から成っています。
この魚島村の歴史としては、
1879年(明治12年) - 村制実施しました。
1889年(明治22年)12月15日 - 町村制施行に伴い弓削村に編入しています。
1895年(明治28年)9月12日 - 弓削村から分離し、魚島村となっています。
1995年(平成7年) - 村制100周年でした。
2004年(平成16年)10月1日 - 上島諸島4か町村で合併し、自治体としての魚島村の歴史を閉じています。
現在では、小泉政策の悪政である市町村合併で、弓削町・岩城村・生名村と共に、愛媛県越智郡上島町となっています。
有人島は、魚島と高井神島のみです。
1947年には人口1,700人を越えていたそうですが、過疎化が進み、閉村直前には約290人にまで人口減少が進み、西日本一の小規模自治体となりました。
「学校は地域の灯台」の理念を掲げ、村民大募集により廃校の危機を乗り越え、
・下水道普及率100%達成
・愛媛県内自治体初のケーブルテレビ (CATV) 導入
など、離島で集落が小規模に凝縮された村だからこそ可能ともいえるユニークな施策を推進し、全国の小規模離島のモデルとして注目された村でした。
2012年における魚島諸島の人口は、212人だそうです。
全部で132世帯の方が暮らしており、そのうち魚島で178人、高井神島が34人です。

(2)魚島
島の面積は1.49k㎡で、島内は自然が豊富です。
広島県の因島・土生(はぶ)港からの定期船でおよそ1時間かかります。
標高169.5mで、斜面が海岸線まで続き、北側の入江に港と集落があります。
歴史は古く、
・弥生式土器出土
・5~6世紀の祭祀場跡から古代朝鮮との関係を思わせる遺物の発見
・室町時代は沖ノ島と呼ばれ村上水軍の出城が置かれていた
・江戸時代には流刑地となったことがある
などが分かっています。
また、南北朝時代に新田義貞の忠臣として活躍した篠塚伊賀守重広が興国3年(1342)の世田城の合戦の敗北で、この魚島へと移り住んだと言われており、隠し財宝伝説やまつわる場所などが残されています。
産業は島名が示すように古くから漁業が盛んで、特に近海での鯛網漁は有名です。
現在は高齢化による後継者不足や環境変化で漁獲量が減少するなど課題をかかえています。
①篠塚公園
中世に瀬戸内海の豪族であった村上水軍の財宝伝説などがある公園です。
神ヶ市古墳や篠塚港(しのずかこう)遺跡などの弥生時代の臨海性遺跡がみられ、やはり燧灘における海上交通上の中継港の役割をもっていたと思われています。
魚島の大木(おおき)遺跡からは、古墳時代の小型の銅鏡や有孔円板(ゆうこうえんばん)(鏡の模造品)、手づくね土器など神々に捧げる祭祀遺物が出土し、海辺における海上交通の航海安全祈願の祭祀遺跡であったことを物語っています。
②亀居八幡神社
鳥居から100mほどの静かな参道を抜けると、総檜造りに銅板葺きの立派な社殿が建っています。
平地がほとんどない魚島で、平らに造成された8000㎡以上の敷地は、魚島の繁栄と人々の信仰を今に伝えています。
境内には、南北朝時代の武将篠塚伊賀守の墓といわれている、国指定重要文化財で鎌倉時代後期の特色を持つ宝篋印塔 (ほうきょういんとう) があります。
社伝によれば、創建は元禄6年と言われています。
③城山展望台
標高147mの展望台で、瀬戸内海が一望できます。
かつては村上水軍の城が築かれていたところだそうです。
④道福寺
島の中で四国八十八カ所を構成している為、島中いたるところで石仏を見かけます。
その中での1番札所は、集落を見渡す位置に建つ道福寺です。
本堂右のガラス戸の中を覗くと、色白で目鼻立ちの良い木造地蔵菩薩を拝むことができます。
この木造地蔵菩薩は極彩色に彩られた精緻な造りで、「沖ノ島五右門平吉弘」と記されています。
ここは、篠塚伊賀守が住んだと伝わる場所に建てられたもので、以前は篠塚寺と呼ばれていました。
⑤魚島小中学校
道福寺から見上げるような階段と坂の登ると、山腹に魚島小中学校があります。
モダンな校舎に体育館、運動場を挟んで別館が建つ敷地は、手入れが行き届き、綺麗です。
平成25年度の在校生は、中学生2人、小学生6人のみなので、秋の運動会は島民総出となるそうです。
⑥大木海水浴場
防波堤で繋がった小島がポイントです。
⑦開発センター
鉄筋6階建ての建物で、会議や研修などに利用されることが多く、宿泊もできます。
4階には郷土資料館があり、大木遺跡や高井神島の浦遺跡から出土された土器や歴史を伝える古い資料がたくさん展示されています。

(3)高井神島
高井神島は、魚島の西側に位置しています。
面積は1.34k㎡なので、魚島とあまり変わりません。
島の最高標高地点は、1921年に建設された高井神島展望台が存在する行者森で、257mです。
高井神島のシンボルである高井神島灯台があります。
展望台と同じ1921年に設置・初点灯され、その後は無人となって、高井神島にある「高井神小学校・中学校」の校章に掲げられています。
島は山間部が多く、殆どの世帯は農業をせず、漁業が主要産業となっています。

(4)江ノ島
江ノ島は、魚島の東側約3kmに位置し、上島町の最南東に位置しています。
面積は、0.53k㎡、周囲2.9kmの無人島です。
南端の吉田磯は江戸時代末期、上納米を積んだ薩摩の御用船吉田丸が座礁し、沈んだ米に鯛が群がったと言われるところで、鯛の好漁場として知られています。
浦島太郎の竜宮城のモデルとも言われています。
現在の漁獲高は減少していますが、明治30年前後には1網で数万尾があがったという記録があり、明治40年に大漁記念碑が建てられています。
また、かつては魚島からの出作が行われていたこともあり、東側に港が造られています。

(5)瓢箪島
その名の通り瓢箪の形をした島で、魚島・人討ノ鼻の南約400mに浮かぶ面積0.02k㎡の無人島です。
一面に広がる燧灘は最高の釣りスポットです。
北半分が広島県尾道市に、南半分が愛媛県今治市に属しており、国の登録記念物に登録されています。
ウサギが棲息しているようですが、海岸では海水浴やキャンプが楽しめ、周囲の海は釣り人に人気です。
この島は、その名のとおり瓢箪の形をしており、NHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』の「ひょうたん島」のモデルとなったとも言われていますが、作者らはこの島をモデルとしたかについては、明言していません。
なお、「ひょうたん島」のモデルとなった島であると言われている島には他に東京都八丈支庁八丈町の八丈島や岩手県釜石市の三貫島と大槌町の蓬莱島、宮城県石巻市の田代島、青森県八戸市の蕪島などがあり、これを考えると、半分願望も入っていると思います。
しまなみ海道の多々羅大橋からも見えます。
ただし、この場合には、下から見る形になり、上手く瓢箪に見えません。
大三島ICを降りて海岸線沿いに北に4km程走ると、撮影ポイントに休憩場が設置されています。
また、生口島にある垂水港から、観光用の「海賊船」により連絡されています。

(6)魚島群島の地質
魚島群島は、領家花崗岩類と、領家変成岩類から構成されています。
魚島の南側半分は、片状花崗閃緑岩が見られます。
この岩石は、瓢箪島の全域と、高井神島の南側の一部にも見られます。
一方、江ノ島と、高井神島のほぼ全域、そして魚島の北側は片状ホルンフェルス・片麻岩になっています。

創建は300年以上前の元禄6年(1693年)とされる豪華な建築で、当時の魚島の豊かな経済力を思わせる。
亀居八幡神社です。
創建は300年以上前の元禄6年(1693年)とされる豪華な建築で、当時の魚島の豊かな経済力を思わます。

冬の風物詩であるデビラ干しが行われ、日差しを受けて光輝くデビラを見ることができる。
魚島では、冬の風物詩であるデビラ干しが行われ、日差しを受けて光輝くデビラを見ることができます。

特徴的な石垣の町並みは、どこか懐かしい気分にさせられる、古き良き風情ある佇まい。
魚島の特徴的な石垣の町並みは、どこか懐かしい気分にさせられます。
古き良き風情ある佇まいです。



魚島群島の地図です。



魚島の案内図です。

             
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