高縄山周辺の過疎集落と廃村

高縄山周辺の過疎集落と廃村の分布について調べてみました。 

(1)高縄山周辺の過疎集落と生活について
高縄山は、松山市街の北東15㎞、標高986mの山です。
山頂には中世の古城高縄城もあったと伝えられています。
山頂付近はぶなの自然林で覆われ、山頂からの瀬戸内海の眺望にもすぐれています。
このような古い歴史と自然景観に恵まれた高縄山には、戸数20戸程度の小集落が多数点在していましたが、これらの集落のなかには、明治以降の相次ぐ挙家離村によって、戸数が著しく減少した過疎集落や、無人の集落となった廃村が多数見られます。
これら山間部の集落は、中世河野氏の砦と関連してその麓に形成された豪族屋敷村的な集落に起源するとか、河野家滅亡に際してその残党が落ちのびてひらいた隠田百姓村的な集落に起源するとか言われているものもあるが、その起源を明らかにできるものはありません。
山間部の集落の藩政時代の生計としては、
①谷底に開けた狭小な水田の耕作
②山腹斜面や尾根ぞいの緩斜面に展開する畑作
③薪や木炭、用材や竹材などの林産物の生産

などが主なものでした。
ただし、谷底の水田は日照に恵まれず、かつ灌漑水が低温であり、その土地生産性は低かったそうです。
住民が生計を立てていたのは、薪・木炭・用材・竹材などの林産物の生産でした。
このような生活は、明治以降も継承されましたが、明治末年から大正年間、さらには昭和に入るにつれて、林産物の生産は次第に不振となっていきます。
それは、交通の発達につれて、より遠隔の地から松山市などに林産物が運ばれてくるようになったことが大きいと思われます。
そして、山間地域からの人口流出が激しくなり、いわゆる過疎集落が顕著になったのは、昭和35年以降の高度経済成長期以降です。
高輪山周辺の過疎が顕著なところをリストアップして、その移り変わりについて調べてみました。

(2)上総集落の移り変わり
上総(かずさ)集落は松山市五明地区に属する集落です。
石手川ダムのダムサイトから北東3㎞、石手川の支流上総川流域の狭小な谷底平野に立地しています。
明治初年の戸数は15戸、人口は75人でしたが、大正3年には11戸、76人となり、大正13年には7戸、昭和10年には6戸となりました。
昭和24年には7戸に増えたのですが、以後また減少し、昭和40年には3戸11人の集落となり、昭和55年までの資料ではそのままの状態が継続しています。
明治初年の『風早郡地誌』によると、耕地面積は田一町三反八畝、畑二町一反五畝、物産は薪一ヶ年出高金21円、民業は男竹籠細工を業とするもの15戸、女紡織を業とするもの4人と記載されています。
耕地面積は1戸平均にすると田九畝、畑一反四畝にしかすぎないので、その土地生産性を考えれば、食糧の自給にはほど遠かったと推察できます。
住民は薪や竹籠の生産によって生計を立てていたと思われます。
住民の伝承によると、藩政時代には年貢を米の代わりに薪で納め、薪250貫が米1俵分の年貢に相当したとのことです。
この上総で編まれた竹籠は上総籠といわれ、松山の住民に重宝されたと言われています。
集落は明治22年(1889)の地籍図によると谷底平野に集村状に立地しています。
大正年間まで全戸萱葺であったので、大正6年(1917)6月に大火が発生し、11戸のうち7戸が焼失したそうです。

(3)梅木集落の移り変わり
梅木集落は上総の北方3㎞、上総川の源流地帯に位置しています。
江戸時代から明治23年(1890)に町村制が実施されるまでは独立した行政村で神社もあり、江戸時代には庄屋もあったそうです。
戸数と人口は明治初年には25戸、107人でしたが、大正3年には16戸、74人に減少しています。
明治22年(1889)の戸数は25戸でしたので、明治中期以降に挙家離村が始まったことがわかります。
戸数と人口は昭和になっても減少し、昭和40年には7戸、37人の集落に縮小し、昭和44年12月から45年3月の間には4戸の家が集中的に離村し、わずか2戸となります。さらに翌46年には1戸が減少し、以後ただ1戸の淋しい集落となってしまいました。
明治22年(1889)の地籍図によって集落と耕地を復元してみると、集落は谷川に比較的近い南向きの山腹斜面に5か所に分かれて立地していました。
井戸はなく飲料水は谷川の水に依存し、谷川ぞいには3か所の汲み地があり、住民はそこまで飲料水を汲みに行っていました。
簡易水道が2戸の家に引かれたのは、昭和28年でした。
耕地は、山腹斜面や尾根ぞいの平坦地に畑が、狭小な谷底平野に水田が点在していました。
明治初年の『風早郡地誌』では、水田二町七反二畝、畑三町七反三畝と記載されてます。
1戸平均にすると、水田一反一畝、畑一反五畝にすぎなかったそうです。
水田では稲が作られ、畑では麦・甘藷などが作られました。
畑も水田も土地生産性は低く、昭和40年頃でも良田の稲の反当収量は5俵程度だったそうです。
不足する食糧は周囲の山林から薪材を伐採した後、焼畑のように山を焼いて作物を栽培して補ったそうで、これを「山作」と言うそうですが、その耕作期間は明治年間には3年から4年程度、第二次世界大戦後は1年半程度でした。
作物は自給用のそば・とうもろこしを主としたのですが、それでも食糧は3分の1程度しか自給できず、不足する食糧は薪を売って購入したそうです。
梅木集落の住民の、昭和40年以降の挙家離村の理由は、
①昭和35年からの高度経済成長期に、山村からの挙家離村が全国的ムードとなり、梅木の住民がそのムードに染まったこと
②燃料革命のあおりを受けて、薪材が売れなくなり、加えて建築様式の変化で竹材も売れ行き不振となり、住民の現金収入が急激に減少したこと
③松山市の都市化の進展や奥道後温泉の開発で、松山市での勤め先が増加したこと
④山奥での生活に不便を感じたこと、特に小・中学生の遠距離通学と高校生が松山市街地に下宿ずまいを余儀なくされたこと

などです。
住民の離村先は松山市街の東部地区である、石手・紅葉町・桑原町などに多いそうです。
かつての梅木集落は、道路修理・家の普請・屋根葺き、葬式などを共同で行い、村人が助け合って生活してきました。
しかし、これら村落共同体的な機能は、住民の離村によってすべて喪失してしまいました。
集落のすべての役職は、残存戸たである烏谷家1戸で負担し、集落は形骸をとどめているのみです。

(4)小屋集落の移り変わり
小屋集落は梅木集落の西方1.5㎞、山一つ隔てた谷頭の集落です。
明治初年の『風早郡地誌』によると、戸数3、人口16、牛1頭、馬2頭、物産としては薪5円50銭と記載されています。
耕地面積は水田三反四畝、畑八反八畝であり、1戸平均にすると、水田一反一畝、畑二反九畝にしかすぎません。
上総・梅木集落同様、農業のみでは生活できず、薪材の生産と販売が住民の主な生業でした。
戸数わずか3戸でありながら、藩政時代から明治23年(1890)までは独立した行政村で、庄屋もあり、神社も鎮座していました。
明治23年(1890)市町村制が実施されて後も、3戸で1つの集落を形成していました。
大正3年(1914)には3戸14人と明治初期と戸数・人口に変化はほとんどみられなかったのですが、その後2戸の農家が松山市の一万に離村し、大正末年には藩政時代に庄屋を勤めた越智家1戸になりました。
その越智家も昭和32年頃息子夫婦が隣接集落の城山に離村し、ついで昭和51年に老夫婦が息子達の後を追って離村し、ついに廃村となりました。
耕地は植林されて消滅し、廃屋も荒れるにまかされています。
住民を失った集落には、大三島の大山祇神社から勧請されたと伝えられる神社のみが淋しくとり残されています。

(5)大河内集落の移り変わり
大河内集落は北条市の旧河野村に属する山間部の集落でした。
中世河野家の本拠の善応寺を流れる高山川の源流近くの山間に立地する集落で、昭和19年に廃村になるまでは、藩政時代以来独立した集落でした。
明治初年の『風早郡地誌』によると、戸数13戸、人口51人、牛・馬ともに各4頭で、耕地は田四町三反四畝、畑は一町二反七畝と記載されています。
1戸平均にすると、田三反三畝、畑一反なので、他の地区同様、農業のみでは生活の維持は困難であり、薪材の生産が重要な現金収入源となっていました。
集落の周辺部の林野は、この地方でにぶ木と呼ばれる雑木山であり、ここで生産した薪は割木の形で馬や「地ごろ」と呼ばれる一輪車で柳原方面に出荷されていたそうです。
戸数は明治40年(1907)ころまでは13戸で推移していたのですが、明治の末年から挙家離村が始まり、大正10年(1921)には従来の戸数の約半数の8戸に減少しています。
さらに昭和5年には6戸になり、車道の完成した翌7年には3戸が下山し、わずか3戸となりました。
最後の離村戸である山本家が昭和19年12月に離村して廃村となっています。
離村理由は他の集落と同じく、薪材の販売が次第に思わしくなくなったことによるものですが、他には、住民が生活の不便を感じるようになったことにもよるそうです。
昭和5年以降の六戸の挙家離村先をみると、同じ河野村の平地部である柳原へ3戸、別府へ2戸転出し、他の1戸は松山市へ転出しています。
柳原や別府へ離村したのは、これらの平坦地で当時農地が求めやすかったことと、離村距離が4~5㎞であり、山間部の廃村に残してきた水田への通勤耕作が可能であり、旧来の農業を主とした生業が維持できたことによると考えられます。
山間部の耕地は昭和30年過ぎまでは通勤耕作されていましたが、その後は耕作放棄され、すぎの植林地となっています。

(6)閏谷集落の移り変わり
閏谷集落は大河内集落から北側に山一つ隔てた河野川の源流近くに立地する山村でした。
谷底とはいえ標高は400mにも達し、大河内から比べると100mも高いところにありました。
藩政時代から昭和30年頃の廃村に至るまでの間は独立した集落でした。
政時代には庄屋も存在し、独立した神社もありました。
 明治初年の『風早郡地誌』によると、戸数は13戸、人口は67人、牛2頭、馬5頭で、耕地は田一町九反、畑一町七反九畝と記載されています。
1戸平均にすると田一反五畝、畑一反四畝と狭く、ほかの集落同様に、薪材の生産が主な生業でした。
戸数は明治30年(1897)頃には河辺姓のみで11戸あったと言われていますが、大正3年(1914)には5戸、61人の集落に縮小しています。
第二次世界大戦中には、上浮穴郡面河村や温泉郡川上村から山畑で雑穀やみつまたを耕作するものも3戸ほど転入し、一時戸数も9戸程度になっていましたが、戦後は河辺姓4戸となります。
このうち3戸は昭和29年までに、松山市と河野村内の横山・別府に転出しています。
以後1戸の老人世帯が残存しているそうですが、かつての耕地はすべて林地となり、実質的には昭和29年以降廃村となっているといえると思います。

(7)大本集落の移り変わり
大本集落は閏谷集落より北1.3㎞、立岩川の支流の谷頭に立地しています。
すりばち状の窪地に集落と耕地が開けていましたが、昭和51年に廃村となりました。
この集落は山一つ隔てた猪木の枝村であり、藩政時代以降明治23年(1890)まで猪木と共に一つの行政村となっていたのですが、実質的には一つの独立した集落でした。
戸数は古老の伝承によると明治年間には13戸程度あったと伝えられていますが、大正中期にはすでに7戸に減少しています。
昭和の戦前に3戸が離村し、第二次世界大戦後には4戸となっています。
その4戸も昭和45年ころから離村し、昭和51年に最後の1戸が離村し廃村となります。
住民の生計は、他の集落と同様に、谷底平野の水田で稲作を営む傍ら、周囲の雑木山(にぶ木山)で薪を生産し、これを販売することでした。
昭和になって離村した7戸の転出先は、北条3戸、高田2戸、善応寺1戸、柳原1戸であり、いずれも現在の旧北条市内です。
転出後しばらくは、大本集落の水田を通勤耕作していたそうですが、昭和55年頃からは、耕地にはすべて杉が植林されており、住民を失った数戸の廃屋が淋しくたたずんでいるのみだそうです。

(8)久保野集落の移り変わり
久保野集落は高縄山の北斜面の標高750m程度の山腹緩斜面に立地していた集落です。
集落の成立は伝承によると藩政時代末期ころであったといわれ、これまで述べた集落のように起源の古いものではありません。
明治初年には15戸程度の戸数があったと言われていますが、明治40年(1907)ころにはすでに6戸に減少していたそうです。
これらの家も明治末年から大正年間にかけて離村し、大正12年(1923)最後の住民が離村して廃村となりました。
住民の生計を立てていたのは、雑穀の栽培の傍ら、炭焼きや山仕事でした。
旧北条からは距離にして10kmも離れていたので、薪材の生産は不利であり、薪材よりも木炭の生産の方が盛んであったと言われています。
明治末年に在住していた6戸の離村先は、中村・米野々・猿川湯裾・中西内(2戸)・越智郡の小西脇などですが、住民の離村理由の最大のものは、子弟の通学に不便だったと言われています。

(9) 高縄山周辺の移り変わりと今後
下表は、高輪山地周辺の集落の戸数・人口の変化の表ですが、明治初年と昭和55年とを比較して、人口が増えているのは、菅沢集落と横谷集落のみです。
私は伊台地区の生まれですが、私の小学生時代の昭和45年頃は、伊台地区と五明地区の人口はそんなに変わっていませんでした。
小学校の生徒数も、ともに1クラスで、伊台小学校が32人で、五明小学校が28人くらいでした。
少しだけ伊台地区の方が松山市街に近いだけでした。
それが、少し近いだけで、伊台地区にはどんどん団地ができて人口が増加し、五明地区は過疎になっていきました。
伊台地区の人口は今は5600人を超えていますが、昭和40年当時は1700人程度でした。
伊台地区の中心地から菅沢集落までは車で5分程度です。
下図には、リストアップした集落の位置関係を示しましたが、集落の中で過疎や廃村になっているのは道路の事情が悪いところと、少しでも市街地から遠いところに位置しているところです。
松山市も、今後発展していくのなら、市街地には余裕のある土地がないので、徐々に郊外へ重要施設が移っていくかも知れません。
廃村も、しばらく休憩しているだけだと感じれば、将来において役立ってくれるかも知れません。



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      高縄山周辺の過疎・廃村集落の分布図
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