イースター島の歴史

「イースター島」は、南米チリから西へ3700kmの太平洋上に位置する火山島です。
人の住む最も近い陸地であるピトルケン島からでさえ2000km離れています。
東京からの石垣島までの距離が約1900kmなのを考えると、絶海の孤島だと想像できます。

(1)イースター島の発見
「イースター島」(イースターとう、Easter Island)はチリ領で、現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語:Rapa Nui)です。
正式名はパスクア島(パスクアとう、スペイン語:Isla de Pascua)で、"Pascua"は復活祭(イースター)を意味しています。
この名前の由来としては、1722年の復活祭の夜に、オランダ海軍提督のヤコブ・ロッゲフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見したそうです。
この発見した日がイースターのため「イースター島」と名前が付いたと言われています。

「イースター島」は、海底火山の噴火によって形成された島です。
最初の移民が辿り着いたのは4世紀~5世紀頃だと言われています。
この移民は、遥か昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出されたポリネシア人だそうです。
ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会です。
そして、祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者達の霊を部族の守り神として祀る習慣があのました。
「イースター島」と同じくポリネシア人の社会であるタヒチ島(タヒチとう、Tahiti)は、マラエと呼ばれる祭壇が作られ、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれています。
「イースター島」でも同じことが行われていたことは容易に想像できます。
化石や花粉の研究から、当時の「イースター島」は、世界でも有数の巨大椰子が生い茂る、亜熱帯性雨林の島と考えられています。
「ホトゥ・マトゥア」という首長が、一族とともに2艘の大きなカヌーでこの「イースター島」に入ってきたとの伝説があります。

(2)モアイ像の変化と盛衰
火山島で、痩せた土地で、これといった資源もない「イースター島」が世界に知られるようになったのは約1000体の謎の巨石像である「モアイ像」の存在があるからです。
「モアイ像」が造られだしたのは10世紀頃が始まりだとされています。
「イースター島」は、加工し易い軟らかな凝灰岩が大量に存在しています。
最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していましたが、代を重ねるごとに有力者が分家し、部族の数は増えて行ったそうです。
そして、島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、「モアイ像」も作られていったそうです。

「モアイ像」のデザインは、時代とともに変化しています。
第1期の「モアイ像」は人の姿に近いもので下半身も作られています。
第2期の「モアイ像」は、下半身がなく細長い手をお腹の辺りで組んでいます。
第3期の「モアイ像」は、頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてあります。
第4期の「モアイ像」は、いわゆる顔だけの像で、全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口などを備えるようになります。
「モアイ像」は、比較的加工し易い素材である凝灰岩を玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられています。
当時作られた「モアイ像」や墳墓、石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されていますが、この時期までが先史社会です。
これといった資源もない小さな島では宗教祭祀が人々の生活の大きな部分を占め、類例のない祭祀文化が発達しました。
絶海の孤島であるため、外からの侵入者はなくいたって平和であり、人口は年々確実に増え、1600年頃には島の生態系から維持できる人口を超える7000人(10000人以上とする説もあり)に達し、1650年頃からたびたび深刻な食糧危機に遭遇したと思われます。
このため食料争奪を巡って部族抗争が頻発し、果ては食人にまで及んだといわれています。
その証拠として、この時代の地層から多くの武器やバラバラに砕かれた人骨が発掘されています。
少なくとも10世紀~17世紀の800年もの間「モアイ像」は作られ続けたのですが、16世紀以降は作られなくなったそうで、その後は破壊されていったそうです。

平和の中での「モアイ像」造りは突然終息してしまいます。
「モアイ像」を造り、運び、建てる為には大量の木材が必要で、大量伐採によって森が失われ、その結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰え、人口爆発と深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じるようになります。
また、人口が増えた分、暖房用の薪や家屋の建設のために、以前より多くの木を必要としたため、部族抗争が始まった頃にはほとんど枯渇してしまっていました。
「モアイ像」は、目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神である「モアイ像」をうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊したそうです。
その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続き、森林伐採は結果として、家屋やカヌーなどのインフラ整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代と殆ど変わらないものになっていたそうです。

そして、先に述べたように、1722年の復活祭の夜、オランダ海軍提督のヤコブ・ロッゲフェーンが、「イースター島」を発見します。
この島に上陸したロッゲフェーンは、1000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島人の姿を目の当たりにしたそうです。
島は一面草原に覆われていて樹がなかったそうです。
島民は草ぶきの小屋や洞窟で原始人的な暮らしをしており、とても、巨大な「モアイ像」を造った民族とは見えなかったそうです。
1774年には、イギリス人探検家のジェームス・クックも上陸しています。
この頃は、島民が武器を手にして闘っているのが目撃されており、当時の人口は約600人程度だったとされています。
クックは倒れ壊された「モアイ像」の数々を目にしたそうですが、「モアイ像」の半数ほどがまだ直立していたと伝えています。
そして、山肌には作りかけの「モアイ像」が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていたそうです。
18世紀~19世紀にかけてペルー政府の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、住民らが奴隷として連れ出されたそうです。
また外部から持ち込まれた天然痘が猛威を振るった結果、人口は更に激減し先住民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時の島民数はわずか111人だったそうです。
「イースター島民」にとって悲劇だったのは、島がもはや全ての島民を養うことができないと気づいたとき、船を建造する木すら枯渇していたことでした。
もともと航海技術に長けていた民族だったのですが、「モアイバブル」で木を失っては航海で新天地に移動する術もなかったのでしょう。
「モアイバブル」の存在は約300体のモアイ(全体の30%に当たる)が製作途上にあったことで明らかにされました。
かくして島民は文化を失い、次第に未開状態へと逆行してしまったのでしょう。
1888年にチリ領になり現在に至っています。

「モアイ像」は「海を背に立っている」と言われていますが、正確には集落を守るように立っており、海沿いに建てられた「モアイ像」は海を背に、内陸部に建てられた「モアイ像」には海を向いているのもあります。
祭壇の上に建てられた「モアイ像」の中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなります。
島最大の遺跡「アフ・トンガリキ」は島の東端にあり、アフの長さは100m、その上に高さ5mを超える15体の「モアイ像」が並んでいます。

(3)イースター島観光
「イースター島」へは、どうやって行けばいいのでしょうか?
日本からは直行便はなく、タヒチのパペーテ経由で行くか、チリのサンチャゴ経由で行けるそうです。
時間的には、日本からタヒチまで約11時間、タヒチから「イースター島」まで約5時間かかるそうです。
また、日本からタヒチまでは直行便がエールフランスで週2便運行されています。
タヒチから「イースター島」までは、季節によって変わり週2~3便だそうです。
「イースター島」内の主な場所を紹介します。
①ハンガロア村(HANGAROA)
「イースター島」唯一の村で、島の南端にあります。
島民の大部分が生活していて、飛行場、港、学校、その他生活のすべてがそこにはあります。
体育館やグランドもあり、バレーボールやサッカーの試合をみんなで楽しんでいるそうです。
島内を巡るには、交通機関が特にないので、ツアーでまわるか、レンタカー(国際免許証が必要、右側通行)を使うしかないと思います。
②アカハンガ(Ahu Akahanga)
島の南東にあり、バイフの少し上くらいです。
ここに限りませんが、倒されているモアイ達は、すべて顔を下にしています(18世紀頃にあった2つの部族間抗争によるモアイ倒しによる結果だそうです)。
倒された「モアイ像」の前には石で丸い環が作られており、そこで踊りが踊られていたそうです。
③アキビ(Ahu Akivi)
島の中央より少し西側にあり、7体の「モアイ像」はとても綺麗だそうです。
④アナケナ(Anakena)
島の北側にある、とても綺麗な白砂のビーチです。
ここにある帽子をかぶった「モアイ像」があります。
後ろ姿をよく見るとふんどしをつけていると、「世界・ふしぎ発見」で言っていました。
すぐそばに、ホツ・マツアの「モアイ像」もあります。
⑤オロンゴ(Orongo)
島の南端にある、イースター島のモアイ伝説と並ぶ 鳥人伝説(鳥人儀礼) の地です。
断崖絶壁で、景色はとても雄大です。
⑥食人洞窟(Ana Kai Tangata)
ハンガロア村の少し南側にあります。
鳥人儀礼 のときに、鳥人になった証をもらった後、食人をしたと言われている洞窟です。
洞窟の奥は石が積まれていて入ることができません。
⑦タハイ(Ahu Tahai)
ハンガロア村の北側のはずれにある、有名な目のある「モアイ像」です。
⑧テ・ピト・クラ(Te Pito Kura)
島の北側にある、「光のへそ」と呼ばれている、丸くて不思議な石です。
⑨トンガリキ(Ahu Tongariki)
島の東側にあります。
タダノという日本のクレーン会社が修復した15体の「モアイ像」があります。
近くにあるラノ・ララクからも見えます。
⑩パナパウ(Puna pau)
ハンガロア村の東側のはずれにある、プカオ(モアイの帽子)の製作所です。
⑪ビナプ(Ahu Vinapu)
島の南端にあり、アフ(祭壇)の石組みがすごいそうです。
インカの遺跡などにみられるのと同じように、全く隙間なく組まれているそうです。
⑫ホツ・マツア
アナケナ・ビーチにある「モアイ像」です。
⑬ラノ・ララク(Rano Raraku)
島の東側にある「イースター島」最大の観光地で、有名な「モアイ像」の切り出し場です。
地上に見えているモアイだけでも300体あり、埋まっているものを含めると400体位あるそうです。
ここには「世界ふしぎ発見」でも取り上げられた、「正座するモアイ」もあります。


「イースター島」の地図です。
行かれる方は参考にしてください。

トンガリキのモアイ。イースター島はラパ・ヌイ語でラパ・ヌイ=大きな島。イースターの日にこの島が西洋に発見されたことから、イースター島の名がついた ©牧哲雄
これは、第3期の「モアイ像」でしょうか?
頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオと呼ばれる飾りものが乗せてあるのもあります。

半身が土に埋もれたラノ・ララクのモアイ。400体近いモアイがラノ・ララク周辺に集中している ©牧哲雄
これは、第4期の「モアイ像」です。
いわゆる顔だけの像です。
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