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和泉層群について

愛媛県では、中央構造線の北側にそって細長く分布している地層が和泉層群です。
さらに北側では領家帯と境しており、松山市では、松山城や石手寺では、南半分が和泉層群、北半分が領家帯となっています。

(1)和泉層群とは
和泉層群(いずみそうぐん)は、中生代白亜紀後期(約1億年前)~新生代古第三紀暁新世(約6400万年前)の地層と推定されています。
松山市の南西から東へ、徳島県と香川県の県境にある讃岐山脈、淡路島南部の諭鶴羽(ゆづるは)山地を通り、大阪府と和歌山県の県境の和泉山脈に至るまで、最大15kmの幅で東西300kmにもわたって続いています。
和泉層群は、先に述べたように南縁を地質境界としての中央構造線に切られ、三波川変成岩と接しています。
そこで、和歌山から西では、和泉層群と三波川変成帯の境界断層が、中央構造線の基本的な姿になります。
和泉層群は、中生代白亜紀後期の中央構造線の左横ずれの断層運動によって沈降してできた細長い海盆(かいぼん)に堆積した地層です。
断層が少し折れ曲がった状態で、横ずれ運動が続くと、折れ目部分に引っ張られて落ち込む盆地ができます。
これを「プルアパート盆地」といいます。
白亜紀末の左横ずれ断層運動にともない、中央構造線の北側が陥没し、細長い海ができ、和泉層群が堆積したと考えられています。
沈降の中心が西から東へと移動したため、地層の時代も西から東へと新しくなって行きます。
四国の西部と東部とでは岩相や地質構造においても違いがあり、堆積盆の埋積過程やテクトニクスが異なっていた可能性があるとされています。
また、和泉層群は東西に細長い分布と非常に厚い地層をもちながら、比較的短い期間に堆積したことが、含まれる化石からわかります。
和泉層群が堆積をはじめてから終わるまでの期間は化石の検討によって約1200万年と推定されており、和泉層群の堆積盆の中心は平均2.5cm/年の速度で東へ移動したと計算することができます。
そして、地層の堆積速度もほぼ同様だと考えられます。
これを年代ごとに辿っていくと、
①約1億8千万年前のジュラ紀においてアジア大陸東縁に美濃、丹波、秩父帯等が付加します。
②約1億3千万年前の白亜紀前期には、いざなぎプレートの北上による横ずれ運動で付加体二重構造(内帯と外帯)の生成により中央構造線の原型ができました。
③約7千万年前白亜紀後期には、いざなぎプレートの運動方向の変化で四万十帯が付加されました。
また、「古四国山地」が隆起し、ジュラ紀付加体と三波川帯が上昇しました。
中央構造線の左横ずれ運動で断層崖が発達し、「和泉海盆」が生成されました。
中国山地に花崗岩が貫入し火山活動が活発化しまし、火砕流などが「和泉海盆」に堆積し和泉層群が生成されました。

(2)和泉層群の岩石
和泉層群の岩種は、主に海底で堆積した砂岩、泥岩、及びその互層から成り、ところどころに礫岩や酸性凝灰岩を挟んでいます。
砂岩はきめは細かいのですが、強度は花崗岩に比べて強い方ではありません。
直方体に近い形で流出してきます。
砂岩なので研磨しても光沢は出ません。
但し、墓石などは年代を重ねると苔がむしてきてとても落ち着いた風合いになります。
和泉層群由来の粘土はきめが細かく、乾燥するとカチカチになります。
扇状地下部の湿地帯ではグライ化して青味を帯びています。
以前は瓦用に大量に採取され「だるま窯」で焼かれていました。
司馬遼太郎の「菜の花の沖」にも出てくる「淡路瓦」が有名です。
現在でも愛媛の砥部焼や徳島の大谷焼などがあり、素朴な風合いが出ています。
家の礎石や石垣、石塀、墓石、大きいものは石橋にも利用されています。
手水鉢、つくばい(蹲)、餅つきの臼、豆などを粉にする石臼、ほこら、石碑など多方面の用途で加工・利用されています。
北縁部の泥岩が発達する地層からはアンモナイトや二枚貝、巻貝などの化石が多く産出し、昔からよく知られた化石産地になっています。(和泉層群の主な化石産地を参照してください)
淡路島ではアンモナイトや貝類またウニやカニ・エビなどの多彩な生物群の化石を産出し、クビナガリュウやモササウルスまたウミガメ類の海生爬虫類、また翼竜や植物食恐竜(ランベオサウルス亜科)までも発見されています。
和泉層群の岩石は、風化が進むと、水に弱く、大雨で壊れやすい性質を持っているので、土石流には注意が必要です。
川原の堆積も早くて常に河床を整備しなければなりません。
泥岩は黒色で炭素を含んでいるそうです。
風化が早くて、川原で見かけるものはとても脆く、手圧で簡単に砕けます。




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