ヨルダンのペトラ遺跡
ペトラ遺跡を紹介します。
ペトラ遺跡は、ヨルダンにある遺跡で、インディージョーンズのモデルとなった冒険心をくすぐる遺跡です。
死海とアカバ湾の間にある渓谷にあり、死海から約80km南に位置しています。
またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味するそうです。
1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録しています。
また、2007年7月、新・世界七不思議に選出されています。
ペトラのある地は、自然の要塞だったそうです。
西にガザ、北にダマスカス、そして紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあったそうです。
ナバテア人(Nabataeans)の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきました。
立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えたそうです。
ペトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられます。
完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きでした。
そして、雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過して行きました。
ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水設備を作り上げたことも分かっています。
紀元前312年に、国ができました。
これはナバテア王国と呼ばれ、10km四方にわたる都市ができたペトラが王国の首都となりました。
最盛期の人口は、3万人を超えたという大国だったようです。
この大国には文化も開花しました。
基本的にはアラビア文化の流れを汲み、少なからずギリシア文化の影響も受けています。
宗教はセム系で、アラビア語を話しアラム語を書くこの文化は、ナバテア文化と呼ばれています。
ヘレニズム様式の建築や優れた陶器製作技術を持っており、陶器の技術はエドム人から受け継ぎました。
ワディ・ムーサで発見された窯は、ペトラが3世紀末まで陶器生産の中心地となっており、その後衰退したことを証明しています。
天然の砂岩に彫刻をして中心街路が造られており、岩壁の所々にくねくねとした美しい飾り文字も刻まれています。
紀元前2世紀には王が誕生し、紀元前1世紀には石造りの家に住むようになりました。
この頃には、アイン・ムーサの泉水を使った、灌漑(かんがい)農耕が始まっています。
紀元前63年にはシリアとパレスチナを、ローマ帝国のポンペイウスが征服しました。
ペトラにまで勢力を伸ばしましたが、ナバテア人は裕福だったため平和的解決をすることができました。
それは、ナバテア自治は認めるものの、税金を払うというものでした。
この頃からペトラでは、ローマ風の建築物が造られ始め、砂漠からやってくる異民族の緩衝地帯としても使われるようになっていきます。
しかも、ナバテア王国とユダヤ王のヘロデとの争いにもローマ帝国が口を挟むようになり、ナバテア王のアレタス4世を処刑するようにとの命令を出したようです。
このアレタス4世の時代がペトロの最盛期といわれており、北は南シリアのダマスカス、南はヘグラ(現在のサウジアラビアの一部)まで領地がありました。
彼の時代に、エル・ハネズやカスル・アル・ビントといった岩窟墓なども造られたようです。
紀元前31年には、ヘロデに領地の大部分を取られてしまいました。
悲しいことに、106年にペトラがトラヤヌス帝によってローマに併合されたことにより、ナバテア王国はラベル2世の時代に幕を閉じました。
一方ローマ帝国は地中海のほぼ全域を手中に収め、紅海とシリアを結ぶ道路が造られました。
もちろんローマの支配を受けるようになってからは、お約束の浴場や円形劇場や神殿などが建設され、ローマ風の街並みへと造りかえられています。
ナバテア文化時代の遺跡たちが減り始め、栄華を極めたころの姿も見られなくなりました。
しかし、イランやパルティアとローマ帝国は激しくぶつかるようになります。
帝国線上には、世界遺産でもご存知のパルミラ遺跡があるパルミラが、交易の中心になります。
海洋貿易が発達するにつれパルミラが栄え、政治の中心はボスラに移され、次第にナバテアには陰りが見え始めました。
ペトラにXデーが訪れました。
363年にペトラを大地震が襲ったのです。
多くの建物が崩壊し、町に半分が壊滅的な被害を受けました。
379年にはローマ帝国がキリスト教化した影響で、改宗させられます。
451年にはカルケドン公会議で、エルサレムに総主教座がおかれました。
ペトラにも主教座がおかれ、キリスト教世界で重要な地位を占めるようになります。
しかし、ナバテアの人々はナバテアの神々を完全に捨てることはできず、6世紀中ごろのパピルス文書には、ナバテア王や神々の名前が残されています。
その後、ペトラは更に衰退し、6世紀末~7世紀にかけて次第に人が減っていき、数えるほどの人しか残りませんでした。
7世紀にイスラム軍が到来し、12世紀に十字軍が砦を造った以外は、廃墟同然になり忘れ去られます。
そして、ここには、砂漠に住む誇り高き民族ベドウィン族が、ひっそりと暮らすようになったそうです。

ペトラ遺跡で最初に見えてくる建造物はこのThe Monastery(修道院)です。
中には入ることはできないそうですが、山々の間から急にこんなものが出てくるとその異様さに圧倒されます。
この「ペトラ遺跡」が発見されたのは1800年代のことで、「忘れ去られた都市」とも呼ばれているそうです。
人々から忘れ去られたペトロ遺跡は、1812年8月22日にスイス生まれの探検家で東洋学者の、ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって発見されました。
彼は、現在も観光客が通る「王の道」に沿う形で前進しました。
盗賊に間違えられれば命の保証はないと、モーセの兄アロンの墓に羊を捧げると偽っての探索だったそうです。
探検をしていたらこんなものを見つけてしまったそうです。

ペトラには、元々はナバテア王国という国があった場所をローマ帝国が征服した歴史があるそうで、この辺りは古代ローマ風の建築物の後を数多く見ることができます。
ペトラ遺跡は、ヨルダンにある遺跡で、インディージョーンズのモデルとなった冒険心をくすぐる遺跡です。
死海とアカバ湾の間にある渓谷にあり、死海から約80km南に位置しています。
またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味するそうです。
1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録しています。
また、2007年7月、新・世界七不思議に選出されています。
ペトラのある地は、自然の要塞だったそうです。
西にガザ、北にダマスカス、そして紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあったそうです。
ナバテア人(Nabataeans)の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきました。
立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えたそうです。
ペトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられます。
完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きでした。
そして、雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過して行きました。
ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水設備を作り上げたことも分かっています。
紀元前312年に、国ができました。
これはナバテア王国と呼ばれ、10km四方にわたる都市ができたペトラが王国の首都となりました。
最盛期の人口は、3万人を超えたという大国だったようです。
この大国には文化も開花しました。
基本的にはアラビア文化の流れを汲み、少なからずギリシア文化の影響も受けています。
宗教はセム系で、アラビア語を話しアラム語を書くこの文化は、ナバテア文化と呼ばれています。
ヘレニズム様式の建築や優れた陶器製作技術を持っており、陶器の技術はエドム人から受け継ぎました。
ワディ・ムーサで発見された窯は、ペトラが3世紀末まで陶器生産の中心地となっており、その後衰退したことを証明しています。
天然の砂岩に彫刻をして中心街路が造られており、岩壁の所々にくねくねとした美しい飾り文字も刻まれています。
紀元前2世紀には王が誕生し、紀元前1世紀には石造りの家に住むようになりました。
この頃には、アイン・ムーサの泉水を使った、灌漑(かんがい)農耕が始まっています。
紀元前63年にはシリアとパレスチナを、ローマ帝国のポンペイウスが征服しました。
ペトラにまで勢力を伸ばしましたが、ナバテア人は裕福だったため平和的解決をすることができました。
それは、ナバテア自治は認めるものの、税金を払うというものでした。
この頃からペトラでは、ローマ風の建築物が造られ始め、砂漠からやってくる異民族の緩衝地帯としても使われるようになっていきます。
しかも、ナバテア王国とユダヤ王のヘロデとの争いにもローマ帝国が口を挟むようになり、ナバテア王のアレタス4世を処刑するようにとの命令を出したようです。
このアレタス4世の時代がペトロの最盛期といわれており、北は南シリアのダマスカス、南はヘグラ(現在のサウジアラビアの一部)まで領地がありました。
彼の時代に、エル・ハネズやカスル・アル・ビントといった岩窟墓なども造られたようです。
紀元前31年には、ヘロデに領地の大部分を取られてしまいました。
悲しいことに、106年にペトラがトラヤヌス帝によってローマに併合されたことにより、ナバテア王国はラベル2世の時代に幕を閉じました。
一方ローマ帝国は地中海のほぼ全域を手中に収め、紅海とシリアを結ぶ道路が造られました。
もちろんローマの支配を受けるようになってからは、お約束の浴場や円形劇場や神殿などが建設され、ローマ風の街並みへと造りかえられています。
ナバテア文化時代の遺跡たちが減り始め、栄華を極めたころの姿も見られなくなりました。
しかし、イランやパルティアとローマ帝国は激しくぶつかるようになります。
帝国線上には、世界遺産でもご存知のパルミラ遺跡があるパルミラが、交易の中心になります。
海洋貿易が発達するにつれパルミラが栄え、政治の中心はボスラに移され、次第にナバテアには陰りが見え始めました。
ペトラにXデーが訪れました。
363年にペトラを大地震が襲ったのです。
多くの建物が崩壊し、町に半分が壊滅的な被害を受けました。
379年にはローマ帝国がキリスト教化した影響で、改宗させられます。
451年にはカルケドン公会議で、エルサレムに総主教座がおかれました。
ペトラにも主教座がおかれ、キリスト教世界で重要な地位を占めるようになります。
しかし、ナバテアの人々はナバテアの神々を完全に捨てることはできず、6世紀中ごろのパピルス文書には、ナバテア王や神々の名前が残されています。
その後、ペトラは更に衰退し、6世紀末~7世紀にかけて次第に人が減っていき、数えるほどの人しか残りませんでした。
7世紀にイスラム軍が到来し、12世紀に十字軍が砦を造った以外は、廃墟同然になり忘れ去られます。
そして、ここには、砂漠に住む誇り高き民族ベドウィン族が、ひっそりと暮らすようになったそうです。

ペトラ遺跡で最初に見えてくる建造物はこのThe Monastery(修道院)です。
中には入ることはできないそうですが、山々の間から急にこんなものが出てくるとその異様さに圧倒されます。
この「ペトラ遺跡」が発見されたのは1800年代のことで、「忘れ去られた都市」とも呼ばれているそうです。
人々から忘れ去られたペトロ遺跡は、1812年8月22日にスイス生まれの探検家で東洋学者の、ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって発見されました。
彼は、現在も観光客が通る「王の道」に沿う形で前進しました。
盗賊に間違えられれば命の保証はないと、モーセの兄アロンの墓に羊を捧げると偽っての探索だったそうです。
探検をしていたらこんなものを見つけてしまったそうです。

ペトラには、元々はナバテア王国という国があった場所をローマ帝国が征服した歴史があるそうで、この辺りは古代ローマ風の建築物の後を数多く見ることができます。

これが、ザ・ペトラ遺跡のThe Treasury(宝物殿)です。
写真は、通常ルートから脇道に逸れたところから繋がるビューイングスポットからの景色です。
ここに至るまでの道が一番キツかったそうです。
ここの他にも「The best view in the world」や、「The best view of Petra」など、胡散臭い看板で方向を指示する看板が数多くあるそうですが、これらは全てビューイングスポットで休憩所(水やお菓子を売っている)を経営している店主の仕業だそうです。
Main Theater(劇場)です。
ローマ式の円形劇場の姿が綺麗に残っています。
舞台の上手や下手のような場所も存在し、どんな風に古代の人達は使っていたのだろう、と想像が膨らみます。
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