地下水利用の歴史について
地下水利用の歴史について調べてみました。
河川の源を尋ねると多くの場合湧泉に出会います。
「こんな所に水田が」と不思議に思える谷地田の水源も多くは湧泉ですが、,地下水の自然の露頭である湧泉が人に係った歴史はかなり古いと言われています。
谷地田(やちだ)とは、台地が開析されてできた谷間の低地すなわち谷地に分布する水田のことで、谷津田(やつだ)とも呼んでいます。
一般に湿地で古く開発されたのですが、豊かな水源に恵まれないため、それらの多くは天水田となり、雨水やわずかな湧水を貯留して水稲作が営まれました。
このような事情から谷地田では、水稲の作付け期間以外でも排水を行うことができず、人為的に湿田となっている所が多く見られます。
常時湛水(たんすい)下におかれる湿田土壌は、還元状態が発達するため、水稲の生育には不適で収量は概して低いくなります。
原人の人骨化石の多くは石灰岩の洞穴や、段丘の砂礫層などの湧泉の多いところで発見されており、縄文時代の遺跡も湧泉の多いところにあります。
現在でも扇状地の末端や丘陵地と平地の境界には、湧泉利用の集落が多く、中には斜面災害の危険性よりも湧泉利用を優先させたのかとも思えるような急崖直下の集落もあります。
近年名水として販売されるものもほとんど湧泉の水ですが、地表水とほぼ同質の安山岩類からの湧水より、若干ミネラルの入った花嵐岩類からの湧水が喜ばれるようです。
中には富士西麓の猪之頭湧泉のように日量50万m3もの大湧泉もあり、現在でも農業用や都市用として広く使用されています。
静岡県登呂遺跡の井戸跡のように,人工的に井戸を掘って地下水を利用したのは、日本では弥生時代からのようです。
古墳時代の池溝の中には,地下水を多量に使用するための集水池とみられるものがあり、現在でも干ばつ対策として多くの井戸が新設されることがありますが、農耕が始まって以来、似たような形で潅漑用の井戸が発達してきたようです。
地下水位が深いところでは、当ブログでも紹介した「まいまいず(かたつむり)井戸」のように、地下水面近くまで水汲みに降りられる、らせん状の道のついた構造のものができました。
また、岩盤地帯や砂礫層のあるところでは、水平方向に掘る横井戸が掘られたましたが、これは,水を自然流下で利用できる利点がありました。
現在でも、横井戸だけでなく、垂直の井戸でも、高低差を利用してのサイホンの原理で、ポンプを使わない井戸もあります。
江戸中期には、これまでの浅井戸で不圧地下水を利用するのとは異なる、被圧地下水を自噴させる掘抜き井戸がはじまり、「上総掘り」と呼ばれる本格的な深井戸の工法に発展し、地下数百mの深さまでも掘れるようになりました。
「上総掘り」については、やはり当ブログで紹介していますが、永海(1940)、菱田(1955)、大島(1982)、の研究があり、明治35年にはインドでKazusa Systemとして紹介されています。
大正2年には、アメリカ製ロータリー機により東京下落合に深井戸第1号が掘られました。
揚水も入力から動力に変わり、ポンプも初期のエアリフトポンプやピストンポンプから,シャフトのあるボアホールポンプ(昭和3年にアメリカから初輸入)へ,さらに戦後の水中ポンプ(昭和29年に西ドイツから初輸入)へと変わり,大口径の深井戸からの大量揚水が各地で広く行われるようになりました。
反面、従来東京や大阪の工業地帯のみであった地盤沈下現象が、新潟平野、濃尾平野、筑後平野などにも発生したそうです。
そのほか、海岸近くでの地下水の塩水化,酸欠空気(地下水がなくなると地中の二価鉄が空気の酸素を奪って三価鉄になるため)の噴出等の地下水公害が多発しました。
このため、地下水の採取を規制する工業用水法(1956年,改正強化1962年),建築物用地下水の採取の規制に関する法律(通称ビル用水法1962年)が制定され、さらに地方公共団体の条例による規制も増え、利用者による自主規制も行われるようになりました。
また昭和60年には、地盤沈下対策要綱が閣議決定され、特に地盤沈下の激しい関東、濃尾、筑後地域で一体的な地下水保全を図ることになりました。
このような現状の中で地下水利用を全面的に否定する考えもありますが、過剰な利用にならないように十分配慮すれば、一般に水質もよく、水温の変化も少なく、干ばつ時の水量の減少も地表水に比べて少ないこともあり、利用の利便性もよいことから、地下水は長期的にも重要な水資源です。
河川の源を尋ねると多くの場合湧泉に出会います。
「こんな所に水田が」と不思議に思える谷地田の水源も多くは湧泉ですが、,地下水の自然の露頭である湧泉が人に係った歴史はかなり古いと言われています。
谷地田(やちだ)とは、台地が開析されてできた谷間の低地すなわち谷地に分布する水田のことで、谷津田(やつだ)とも呼んでいます。
一般に湿地で古く開発されたのですが、豊かな水源に恵まれないため、それらの多くは天水田となり、雨水やわずかな湧水を貯留して水稲作が営まれました。
このような事情から谷地田では、水稲の作付け期間以外でも排水を行うことができず、人為的に湿田となっている所が多く見られます。
常時湛水(たんすい)下におかれる湿田土壌は、還元状態が発達するため、水稲の生育には不適で収量は概して低いくなります。
原人の人骨化石の多くは石灰岩の洞穴や、段丘の砂礫層などの湧泉の多いところで発見されており、縄文時代の遺跡も湧泉の多いところにあります。
現在でも扇状地の末端や丘陵地と平地の境界には、湧泉利用の集落が多く、中には斜面災害の危険性よりも湧泉利用を優先させたのかとも思えるような急崖直下の集落もあります。
近年名水として販売されるものもほとんど湧泉の水ですが、地表水とほぼ同質の安山岩類からの湧水より、若干ミネラルの入った花嵐岩類からの湧水が喜ばれるようです。
中には富士西麓の猪之頭湧泉のように日量50万m3もの大湧泉もあり、現在でも農業用や都市用として広く使用されています。
静岡県登呂遺跡の井戸跡のように,人工的に井戸を掘って地下水を利用したのは、日本では弥生時代からのようです。
古墳時代の池溝の中には,地下水を多量に使用するための集水池とみられるものがあり、現在でも干ばつ対策として多くの井戸が新設されることがありますが、農耕が始まって以来、似たような形で潅漑用の井戸が発達してきたようです。
地下水位が深いところでは、当ブログでも紹介した「まいまいず(かたつむり)井戸」のように、地下水面近くまで水汲みに降りられる、らせん状の道のついた構造のものができました。
また、岩盤地帯や砂礫層のあるところでは、水平方向に掘る横井戸が掘られたましたが、これは,水を自然流下で利用できる利点がありました。
現在でも、横井戸だけでなく、垂直の井戸でも、高低差を利用してのサイホンの原理で、ポンプを使わない井戸もあります。
江戸中期には、これまでの浅井戸で不圧地下水を利用するのとは異なる、被圧地下水を自噴させる掘抜き井戸がはじまり、「上総掘り」と呼ばれる本格的な深井戸の工法に発展し、地下数百mの深さまでも掘れるようになりました。
「上総掘り」については、やはり当ブログで紹介していますが、永海(1940)、菱田(1955)、大島(1982)、の研究があり、明治35年にはインドでKazusa Systemとして紹介されています。
大正2年には、アメリカ製ロータリー機により東京下落合に深井戸第1号が掘られました。
揚水も入力から動力に変わり、ポンプも初期のエアリフトポンプやピストンポンプから,シャフトのあるボアホールポンプ(昭和3年にアメリカから初輸入)へ,さらに戦後の水中ポンプ(昭和29年に西ドイツから初輸入)へと変わり,大口径の深井戸からの大量揚水が各地で広く行われるようになりました。
反面、従来東京や大阪の工業地帯のみであった地盤沈下現象が、新潟平野、濃尾平野、筑後平野などにも発生したそうです。
そのほか、海岸近くでの地下水の塩水化,酸欠空気(地下水がなくなると地中の二価鉄が空気の酸素を奪って三価鉄になるため)の噴出等の地下水公害が多発しました。
このため、地下水の採取を規制する工業用水法(1956年,改正強化1962年),建築物用地下水の採取の規制に関する法律(通称ビル用水法1962年)が制定され、さらに地方公共団体の条例による規制も増え、利用者による自主規制も行われるようになりました。
また昭和60年には、地盤沈下対策要綱が閣議決定され、特に地盤沈下の激しい関東、濃尾、筑後地域で一体的な地下水保全を図ることになりました。
このような現状の中で地下水利用を全面的に否定する考えもありますが、過剰な利用にならないように十分配慮すれば、一般に水質もよく、水温の変化も少なく、干ばつ時の水量の減少も地表水に比べて少ないこともあり、利用の利便性もよいことから、地下水は長期的にも重要な水資源です。
スポンサーサイト