ナミブ砂漠のデッドフレイの奇異な景観

ナミビアのナミブ砂漠にあるデッドフレイを紹介します。

まず、ナミブ砂漠はナミビアの大西洋側にある砂漠でおよそ5万k㎡の広さがあり、約8000万年前に形成された世界最古の砂漠と言われています。
オレンジ色の砂で満たされたナミブ砂漠の中に、ぽっかりと地表が渇いた盆地が存在しています。
これが、デッドフレイ(Deadvlei)と言って、ナミビアの大西洋沿いに南北約1,300kmにわたって広がるナミブ砂漠の深部で、ナミブ・ノークラフト国立公園内にあります。
現地の言葉で「死の沼地」を意味しており、干上がった沼地と朽ちた木々が独特の景観を作り出しています。
ここにはかつてツァウチャブ川の洪水により沼地が形成されました。
その後の気候変動で沼の水が全て干上がってしまい現在のような状態になったそうです。
あまりに乾燥した気候のため、木は微生物によって分解されることもなく、ひび割れた白い地面に、900年前に枯れてしまった木々が砂漠の真ん中に存在しています。
死の砂漠ではありますが、地下にはまだ水分が残存しているため、動物や昆虫はこの地によく集まってくるみたいです。
そして、デッドフレイを有名にしたのは、この世のものとは思えないこの奇異な景観です。
奇異な景観と言うか、まるで絵のような光景と言うか、その美しさが最も増すのが日の出前のひとときだそうです。
燃えるような朝の光が周囲を金色に染め、陰ったままの銀色の大地と、それらを背景に枯れ木のシルエット浮かび上がってきます。
神秘的な光景を確かめてみたい人には、おすすめの絶景スポットです。
デッドフレイへの行き方としては、まずナミビアの首都ウィントフックへ向かいます。
日本からは直行便がないので、香港やドバイで乗継ぎ、南アフリカのヨハネスブルグへ入ったあと、ヨハネスブルグからウィントフックまでは南アフリカ航空で移動しないといけないそうです。
ウィントフックからナミブ砂漠まではレンタカーを借りて車で行くか、現地のオプショナルツアーに申し込む必要があるそうで、大変な旅になりそうです。

デッドフレイ
デッドフレイの看板があり、ここから1.1kmと書いてあります。

ナミブ砂漠
このような大砂丘を、デッドフレイに向かってひたすら歩きます。

Deadvlei
雪のように白くなっている部分がデッドフレイです。
遠くからなら、枯れ木もほとんど見えません。

Deadvlei
まだ、朝日が昇りきってはいませんが、デッドフレイからの写真です。
コントラストが、一枚の「絵」になる瞬間は、空の青と、灼熱の太陽でもえる砂漠のオレンジと、干上がった沼地の黒、そして影になった枯れ木です。
本当に、絵画にしか見ない風景です。

デッドフレイ
時間と共にどんどん陽が差し込み、デッドフレイの風景も刻々と変わっていきます。
「沼」とは言っても「死の沼」というだけあり、完全に地盤が乾き石のように硬くなっているそうです。
その石のように硬い地盤に枯れ木だけが残されているのが不思議です。

Deadvlei
完全に日が昇ったときの風景です。
干上がった沼地は、黒から白に変わっていきました。
そして、背後の砂丘から朝日が昇りきると、もう、その風景は消えてしまうそうです。

デッドフレイ
これが、セスリムキャンプサイトから約1時間ほど走った場所にあるデッドフレイの地図です。
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松山市の野忽那島について

松山市には離島がたくさんあります。
この中で、今回は旧中島町から編入合併して松山市になった野忽那島を紹介します。

野忽那島(のぐつなじま)は、忽那七島の中で最も東にある1番小さな島であり、彼女が生まれた島「瀬の島」の映画で一躍有名になった島です。
面積は0.92km²で、周囲5.7kmです。
平成22年の国勢調査では、人口141人、世帯89戸でした。
南部のオイラン山(102m)を頂点に丘陵が続き、北部のくびれた低地に集落があります。
猫の島でも有名ですが、周辺の海にはアジ・メバル・サバ・アブラメなどの魚が多く、一年を通して釣り人が訪れます。
忽那七島は、どの島でもそうなのですが、みかんを中心とした農業と漁業の島であり、特に野忽那島は、小さな楽園のようなゆったりとした時間が感じられる島です。
映画のロケ地でもある標高71.4mの皿山展望台からの景色は、美しい瀬戸内を代表する風景となっています。
2002年に整備された遊歩道には、映画の登場人物の名前がつけられ、展望台には戦時中の監視所の一部が残っています。
野忽那小学校では、瀬戸内シーサイド留学という制度がありました。
この制度は、毎年数名の子どもたちを日本各地より受け入れて、島での生活を体験してもらうというものでした。
私も、父親になってからこの制度を知りました。
子供が小学生になる時に、野忽那小学校に入れようか真剣に悩んだほどでした。
2008年に野忽那小学校が休校となったことで、この制度は一旦中止になっているようです。
でも、この名残か、多くの卒業生が、今もなお島を訪れることもあるようです。
野忽那小学校から集落の路地を通り、島を横断した先にある美しい砂浜広がる「ヌカバ海水浴場」があります。
ここからは、高縄山、そして沖には往来する船などが望む、まるでプライベートビーチのようにゆっくりとした時を過ごすことができます。
また忽那諸島の中では、周辺をあまり損なわないで残っている貴重の遺跡「丸山古墳」は、鹿角装の刀や鉄剣・人骨などが出土しており、松山市指定史跡となっています。
他にも島の芸術家・石崎嘉吉さんの色鮮やかな絵馬がある「宇佐八幡神社」や、野忽那島と睦月島の間にある面積0.0033㎡の「芋子島」、島の北東にある無人島の「田ノ島」など、歴史文化が残り自然が溢れている島です。
野忽那島は古くは「野島」と呼ばれていたそうです。
地頭になったのは東浦地頭重俊の子重平でした。
安和年間(968-970)に風早郡北条から多田満仲の遺臣がこの島に移り、漁業を営んだのが定住の始まりと言われています。
島人の結束力の強さと群行動の統一は、七島中で最も漁村的性格の強い島とも言われており、昭和23年頃までは一本釣を修行としていましたが、昭和26年に衣類行商に転じた一例からも伺えるようです。

野忽那島全景の写真
野忽那島の全景です。
ぺっちゃんこの島なので、大地震の津波でも発生すると、島自体が浸かってしまいそうです。

皿山展望台の写真
皿山展望台です。
島北側にあります。
標高71.4mから360度のパノラマで望む瀬戸内海はまさに絶景で、怱那諸島でも有数の展望台として知られています。
平成14年に建設された山頂へ向かう遊歩道の一部には、映画「船を降りたら彼女の島」の登場人物の名前がつけられています。

ヌカバ海水浴場の写真
ヌカバ海水浴場です。
7月上旬からオープンする穴場スポットです。
休憩所、トイレ、シャワー、キャンプ場と設備が充実しています。

野忽那小学校の写真
野忽那小学校は、明治10年開校の歴史ある学校です。
昭和62年から離島では初めての試みとなるシーサイド留学制度を導入しました。
全国各地から小学生を募集し、里親のもとで1年間島生活を経験させると言う活動を21年間続け、延べ120名の留学生を受け入れました。
しかしながら、急激に進む過疎化の影響で、平成21年度をもって、地元の小学生がいなくなると共に留学制度もなくなり、現在は休校となっています。

監視所の一部の写真
皿山頂上には戦時中に使われていた監視所の一部が残っています。
港付近にある皿山は、標高73m、頂上には、丸太小屋と、戦争当時つかわれていた監視塔があり、瀬戸内海の島々を一望できます。

野忽那島の位置
野忽那島の詳細な地図です。
地図でもわかるように、周遊道路はありません。
オイラン山へは道がなく、港から歩くと1時間はかかるそうです。
それも、胸まで伸びている笹や草など掻き分けて登らないといけないと、誰かのブログに書いていました。

松山市の二神島について

松山市には離島がたくさんあります。
この中で、今回は旧中島町から編入合併して松山市になった二神島を紹介します。

二神島(ふたがみじま)は、忽那諸島の南西端に位置し、北には怒和島や津和地島、西約4kmには山口県の周防大島が迫っています。
周囲10 kmで、面積 2.15 km2です。
東西に細長い形をしており、島の南側は切り立った崖が続いています。
もともとは松が多く茂っていたことから「松島」と呼ばれていたようですが、1500年頃、藤原鎌足の流れを組むといわれる長門国の豪族・豊田氏の一派がこの島に移り住んで二神氏を名乗ったと言われていることから、その頃すでに二神島と呼ばれていたのかもしれません。
室町時代から江戸期にかけての文書「二神文書」が残っています。
その後二神氏はこの島を拠点とする水軍として勢力を誇っています。
安養寺の裏山には600年にわたる二神家代々の墓が残されています。
産業は、小規模な漁業とだんだん畑での柑橘類の栽培が盛んでミカンや伊予柑が島の経済を支えています。
また、水産業は、釣島などとともに、たこつぼ漁で知られ、漁港にはつぼが山積となっており、特徴的な漁港景観を形成しています。
小学校は、二神小学校ですが、2007年度でも児童3名で、2008年10月 児童が「二神島-歴史と芸術の島-」と題するリーフレットを作成後、2009年4月以後から休校となっています。
中学校はありません。
平成22年の国勢調査では、人口 166人、世帯 98戸です。
瀬戸内の他の小島同様、極端に高齢化が進んでおり、2013年現在でも、島内に12歳未満の子供はいなくなっています。
漁業を中心として他の島しょから離れていたがゆえに、近代化されていない生活が色濃く残っていたことから、1972年に『ナショナルジオグラフィック』誌で大きく取り上げられました。
日本テレビ『進め!電波少年』の企画「電波少年的無人島脱出」で、挑戦者のRマニアの2人が生活した無人島は近隣の由利島でしたが、イカダを作って脱出し辿り着いた先が二神島でした。
昭和47年(1972年)に、世界的権威を持つ地理雑誌「ナショナル・ジオグラフィックマガジン5月号」に二神島が26ページにわたって紹介されたそうです。
その後、アメリカの高校の世界地理の教科書にも掲載されているそうです。
近代化されず、日本古来の美しさを残したパラダイスの島として紹介され、雄大な自然や、古くから伝わる文化がそのまま残された観光スポットが各所に散りばめられています。

二神島全景の写真
二神島の全景です。
二神島の集落は、港の泊まる場所にある二神地区の1つの集落のみです。
昔ながらの石を積んだ石垣や、石段の階段はとても情緒ある瀬戸の島の景観だそうです。
宇佐八幡宮から少し北になる石段の景観も、映画『船を降りたら彼女の島』でロケに使われました。
漁港はゴミゴミとして、きたない場所であることも少なくないのですが、二神島の漁港は、海がきれいだし、きれいな海の景観にマッチしています。

ビャクシン自生地の写真
ビャクシン自生地があります。
県内でこれだけの群落を形成しているものはめずらしく、昭和29年11月24日に県の天然記念物に指定された群生地です。
城の山と呼ばれる岩山に数十本のビャクシン(イブキ)が群生していて、中には、根周り5m、樹高約21m、推定樹齢300年以上の大木も見られます。

大サボテンの写真
梅田さん家に大サボテンがあります。
樹齢130年を越え、高さ5mにも及ぶ大サボテンです。
昭和42年に高松宮殿下もご観覧され、記念碑がたてられています。
個人宅の庭に生えているので、見学の際には一言断わってからお願いしますとの事です。

アラレ浜の写真
瀬戸内海ではめずらしい丸石の浜で、アラレ浜と言います。
大小様々、色とりどりの丸石が、波に洗われてカラカラと心地良い音をたてます。
正面には無人島である由利島も望む事が出来ます。

妙見神社の写真
妙見神社が、航海の安全と、豊年豊漁を授かる神様として妙見山の中腹に祭られています。
もともと山頂に祭られていたのですが、あまりの尊厳さのため船影の見えない場所に移したそうです。
戦国時代には近くを通る船は帆を畳むというしきたりがあったそうです。
この山は霊山として崇められていて、現在でも女人禁制で、女性は山道の途中にある祠までしか入ってはいけないと言われています。

宇佐八幡神社の写真
二神地区に、宇佐八幡神社があります。
1094年建立で、境内へは170段の階段を上って参拝します。
明治時代に興居島から伝わった船踊りが奉納されていましたが、過疎化の影響で踊り手がいなくなり、現在は行われていません。
10月の祭礼では全国的にも珍しいおみどり神事が行われ、伝統を継承しています。
応仁天皇など3神を祭っているといわれ、映画『船を降りたら彼女の島』でもこの場所がロケに使われました。

二神家の墓の写真
二神家の墓です。
この島を統治していた二神家一族の墓が約600年に渡って残っています。
貴重な歴史資料として考古学的調査研究の対象とされています。
晩年を画家として過ごした最後の領主、二神司郎氏の墓には、パレットと絵具の装飾が施されています。

梨岡素岳の漢詩碑の写真
梨岡素岳の漢詩碑があります。
梨岡素岳は日本を代表する篆刻家です。
関東大震災に遭い家屋が半壊し、夫人の故郷である二神島に隠棲しました。
その後、本浦の丘にアトリエ「臥雲山房」を築き、風月を友とし詩書画、篆刻に専念して余生を送ったそうです。

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二神島の詳細な地図です。
二神集落を少し山に向かって登ると海と集落が見下ろせるそうです。
私は、二神島には縁がなく、一度も行ったことがないのですが、もともと二神は海のきれいな島なので、集落がマッチした景観は、とてもやすらげる景観だそうです。

松山市の津和地島について

松山市には離島がたくさんあります。
この中で、今回は旧中島町から編入合併して松山市になった津和地島を紹介します。

津和地島とは(つわじじま)は、愛媛県、山口県、広島県との県境位置する島なので、松山市では市街地からは一番遠い島です。
かつては瀬戸内海の要衝として参勤交代に向かう諸大名を接待するため松山藩のお茶屋が港に置かれていました。
秋祭りには勇壮なだんじりや神輿が、威勢のいい掛け声とともに集落内を練り歩きます。
柑橘栽培が盛んですが、近年はイノシシ被害が軽減されるなどの理由から、玉ネギが多く栽培されるようになりました。
砂地で作る玉ねぎは辛みが少なく、生でもそのまま食べられるほど甘みが強いのが特徴だそうです。
また、ヒラメやアワビの養殖など漁業も盛んに行われています。
小学校は、松山市立津和地小学校があり、2015年度の児童2名だそうです。
伊予銀行のテレビ宣伝で、伊達公子が子供とテニスをしているところも出てきます。
ただし、この児童2名が今年卒業したので、平成29年3月31日をもって津和地小学校は休校となってしまいました。
中学校はありません。
瀬戸内海特有の少雨気候により水資源に恵まれていないため、飲料水の貯水と導水を兼ねた地下トンネルを建設しています。
表流水を自然流下で水をため、給水する仕組みだそうです。
平成22年の国勢調査では、人口 383人、世帯 184戸です。
私は、友人が何人かいたので、何回も行ったことがあります。
船から降りた瞬間、まるで時間が止まったような印象をうけました。
それくらい、島の人ののんびりとしていた様子が思い浮かびます。
歩いているおばあちゃんも、スローモーションで歩いているようにゆっくりで、私だけがせっかちに見えました。
でも、祭りに行ったときには別世界でした。
こんなにも、この島に人がいたのかと思うくらいの賑わいで、若い人もたくさんいました。
ただ、若い人は、祭りのときだけ帰ってくるみたいでした。

だんじりの写真
だんじりです。
秋のお祭りの時に、神輿と共に集落内を練り歩くそうです。
忽那諸島内でだんじりを引くのは津和地だけで、秋のお祭りは最も盛大に行われています。
以前は4台出ていましたが、現在は組ごとに3台のだんじりを担ぐそうです。
だんじりの上には子どもが4人乗り、掛け声に合わせて太鼓を叩きます。

お茶屋跡の碑の写真
お茶屋跡の碑もあります。
かつて瀬戸内海航路の要衝として、参勤交代に向かう諸大名を接待するための御茶屋が港におかれていました。
松山藩主の名代である八原家が常駐し、参勤交代の便宜を図るなどの功績をあげました。
現在、その跡地は保育所になっていて、その片隅にこの碑が建てられています。

平和の碑の写真
平和の碑です。
1945年 8月9日、呉から大津島へ航海中の第21号輸送艦がアメリカ機の空襲に遭い、それによって発生した火災が積載していた弾薬に引火、爆発。損傷した艦が津和地島の浜に突っ込み座礁しました。
身の危険をかえりみず、島民総出で救出活動をし、負傷者を小学校に収容し応急処置を行いましたが、63名が命を落としたそうです。
現在は防波堤ができ砂浜はありませんが、遺族や生存者が建立した碑が残されていて、地元の小学生が定期的に清掃活動をしているそうです。

洞源寺の写真
洞源寺です。
洞源寺は、1634年開山の曹洞宗の寺院です。
高台にあるため境内からの景色は素晴らしく、集落越しに怒和島まで見渡せます。
また、境内の奥には第21号輸送艦で亡くなった63名の名前が彫られた慰霊碑が建てられています。

導水トンネルの写真
導水トンネルです。
津和地島の地形は急峻で、地表は保水力の小さい花崗岩風化土で覆われ、河川が未発達で流量が少なく、水資源に恵まれていないため、日本初の貯水兼導水トンネルが建設されました。
島をほぼ南北に貫くこのトンネルの貯水量は12,000立方mで、島民の50日分と言われています。

旗山頂上付近から眺める島の西側の写真
旗山頂上付近から眺める島の西側の風景です。
今から40年近く前は、西側へと続いている道はありませんでした。
下の地図では続いているようなので、今は便利になったと思います。
まあ、40年前は車が走る道もなく、港付近に自転車やテーラーが走っているのみだったと記憶しています。

津和地島の位置
津和地島の詳細な地図です。
旗山の中腹に行ける道もあるのですね。
しばらく行っていないので、ずいぶんと変わっている景色が見られると思います。

松山市の睦月島について

松山市には離島がたくさんあります。
この中で、今回は旧中島町から編入合併して松山市になった睦月島を紹介します。

睦月島(むづきじま)は、中島の東隣に位置し、島の東側からは野忽那島が望めます。
松山市からは、一番近いのは興居島(下の地図には載っていません)ですが、釣島、野忽那島の次に近い島です。
平成22年の国勢調査では、世帯159戸で、人口276人となっています。
2008年度の児童3名となっていますが、それから10年近く経った現在はどうなのでしょうか。
島全域でみかん・いよかんなどの柑橘栽培が盛んです。
猫好きな人たちには「猫の島」としても知られています。
そして、睦月島に到着する頃、フェリーから見える集落の町並みには、長屋門と呼ば立派なれる門がまえの古民家が立ち並んでいます。
これはかつて、睦月島が伊予かすりの行商人たちが暮らす島として栄えた名残りです。
今も趣深い装飾をほどこした家々が並んでいます。
島の西に幟立山(おりたてやま)、東に高松山(たかまつやま)があり、二つの山をぐるりと回る農道は、睦月スカイラインと呼ばれる忽那諸島屈指のウォーキングルートで、海と山の絶景が約15kmにわたり続いています。

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中島汽船の航路図です。
中島町が、松山市に合併する前からあるので、興居島行きの船は別便になっています。
したがって、この地図からも省かれています。

睦月の古民家の写真
睦月の古民家の写真です。
明治から昭和中頃まで、睦月では「縞売り」という伊予かすりの行商が全国各地へ赴き、集落には繁栄した人の豪邸が立ち並んだと伝えられています。
東海岸には「長屋門」と呼ばれる立派な門がまえの家屋が並び、その面影を留めています。
長屋門は台風や高波から家を守るとともに、蔵や居室の役割も果たしています。
門をくぐると「ヒノリワ」と呼ばれる中庭があり、その奥に母屋があります。

睦月の路地の写真
睦月の路地です。
島の集落は、港近くに寄り集まるように家が立ち、路地の多い独特の景観を形作っています。
歩くと、古めかしい窓や細工をほどこした玄関を持つ家に出会います。

睦月スカイラインの写真
睦月スカイラインです。
島の東西にある二つの山を8の字に回る農道で、舗装されたゆるやかな道はハイキングに最適です。
みかん畑の向こうに見える海や小島、山道の美しさからスカイラインと呼ばれます。
西には約9kmの島四国八十八ヶ所、東には約7kmの西国三十三ヶ寺の二つのルートがあり、道端の仏像が心を和ませます。

注連石(しめいし)の写真
睦月小学校正門前に注連石があります。
書家・三輪田米山(みわたべいざん 1821年から1908年)の「孳孳為善(じじぜんをなす)」の書がある注連石(しめいし)です。
孟子が理想とした「鶏の鳴くころに起きて孳(つと)め、孳(はげ)みて、善を為す」という人の暮らし方に、朝星が見えるうちから夜星が出るまで働く瀬戸の小島の人々の姿を重ね合わせたのかもしれません。

當田八幡神社(とうだはちまんじんじゃ)の写真
當田八幡神社です。
當田八幡神社(とうだはちまんじんじゃ)は、創立約1100年という歴史ある神社で、田心姫(たごりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)の三女神が祭られています。
秋祭りの宮出しの際、鉢合わせに備える神輿に、補強のための伊達縄を「よさーせい」の勇ましい掛け声とともに巻き締めていく光景が見られます。
鳥居の横には乃木希典(のぎまれすけ)直筆の石碑があります。

夫婦楠(めおとぐす)の写真
夫婦楠(めおとぐす)
夫婦楠(めおとぐす)は、島四国をしめくくる札所、玉善寺の階段脇にある周囲7mにもなる大きな楠の木で、5月から6月にかけて白い花を咲かせます。
樹高は約30mで、樹齢300年以上と推定され、幹が二つに分かれていることからこの名が付いたそうです。
松山市指定天然記念物です。

梅の子島(梅の子城跡)の写真
梅の子島です。
梅の子島は、梅の子城跡とも言い、山頂に見張り台があった、中島の海の玄関ともいえる難攻不落の要塞でした。
睦月スカイライン東ルートから、芋子瀬戸に浮かんでいるのが見えます。
歩いて渡ることができる中世の山城の貴重な遺跡でもあります。

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睦月小学校ですが、ここは2009年に6年生が卒業して、生徒は5年生の1人のみとなったため、2010年より、休校となっています。
残った小学生は隣の島である中島小学校へ定期船で通学しています。
尚、睦月中学校は、2002年中島中睦月分校となり、2003年廃校となっています。
中学生もいるみたいなのですが、中島の中学校に通っているそうです。

muzuki-jima028
港にあった島内地図です。

睦月島の位置
睦月島の詳細な地図です。
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