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京都嵯峨野の「竹林の散策路」

京都の有名な観光地「嵐山」から徒歩で行ける、嵯峨野の竹林を紹介します。

京都嵯峨野に広がる竹林は数々のCMなどに使われ、多くの観光客が訪れる人気スポットです。
その竹林に2015年秋、新たな観光スポットが登場しました。
「竹林の散策路」と名付けられた遊歩道です。
竹林の中心でもある野宮神社の少し北に、ゆっくりと竹林の情景を楽しめる穴場的な新散策ルートとなっています。
ここは、日本のみならず世界中からの観光客が連日たくさん訪れる大人気のエリアです。
観光客を乗せて人力車が行き交っています。
特に野宮神社から大河内山荘にかけては竹林の道のハイライトです。
入場はもちろん無料で、9:00から17:00までの解放されています。
「竹林の散策路」は想像以上に広い空間です。
青々とした竹林を回遊できるように、ゆったりとした道幅の散策路がはりめぐらされています。
春の桜や秋の紅葉と違って竹林は一年中楽しめるスポットです。
冬でも緑を絶やさず、夏でも涼しげなその光景は嵯峨野、そして京都観光の象徴的な情景です。
今年は特に暑い京都の中にあっても、この「竹林の散策路」の、見渡す限りの青々とした竹林からは、涼しい風が吹いてきます。
京都の真ん中の避暑地と言えるでしょう。

京都の有名な観光地「嵐山」から徒歩で行ける、嵯峨野の竹林。見渡す限りの青々とした竹林からは、涼しい風が吹いてきます。日中は人出が多いので、早朝に行くのがおすすめ!
真夏でも、ここだけは涼しそうです。

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真夏でも涼しい「鳴沢氷穴」

真夏でも涼しい「鳴沢氷穴」を紹介します。

「鳴沢氷穴」は、山梨県南都留郡鳴沢村に立地する溶岩洞穴で、総延長156m、幅1.5-11m、高さ1-3.6mあります。
平安時代初期の貞観6年(864年)に、富士山の北西山麓で、側火山である長尾山で大規模な噴火活動が発生しました(貞観大噴火)。
この貞観大噴火で噴出した膨大な溶岩が、徐々に冷え固まる際に、内部の高熱なガス体や冷え切らない溶岩が抜け出すことで形成された空洞の一つが、この「鳴沢氷穴」だと言われています。
内部は非常に低温で、年間の平均温度は摂氏3度程度だそうです。
地下21mの「木の池」では、氷柱や玄武岩質溶岩群を見ることができるそうです。
氷穴内には氷の貯蔵庫があります。
この貯蔵庫は、かつて江戸時代には献上するための物品として、大正時代には冷蔵庫の氷など、様々な用途で使われていたそうです。
現在は用途が無いため、毎年冬に四角い氷を作り再現しているそうです。
国道139号から車道により青木ヶ原樹海へ入った場所にあり、西隣にある「富岳風穴」とともに、1929年12月17日に、旧文部省が、富士山麓の天然記念物に指定されました。
「鳴沢氷穴」は、年間を通して氷柱があるそうです。
高さも、1mくらいの所もあるので、大人はヘルメットを被らなければ必ず頭をぶつけるそうです。
またヒールの女性には、スタッフの方から「レインブーツに履き替えて」と声がかかかります。
階段には竹の手すりがありますが、掴んだ方が安心なほど急です。
ロングスカートやショルダーバッグは、洞窟の中で邪魔になり手を塞ぐので、リュックが無難です。
また洞窟の入り口からかなりひんやりしていて、中にいるのは15分ほどですが、寒いのが苦手な方は、夏でもパーカーなど羽織った方が賢明です。
当然、半袖、短パンでは肌寒くてゆっくり楽しめないかも知れないそうです。
もう一方の洞窟である「富岳風穴」からは車ですぐです。
徒歩でも20分くらいです。
駐車場は100台ほど停まれ、チケットは350円(小学生200円)ですが「富岳風穴」も行くなら600円で共通チケットが購入できるそうです。
6~7月が最も見頃だそうで、足場や照明も整備されているそうです。
ただし、「鳴沢氷穴」は竪縦穴式洞窟なので、「富岳風穴」と比べてかなり斜面がきつくなっています。
この「鳴沢氷穴」は、神奈川県にある江ノ島の洞穴までずっと穴が伸びている、という逸話もあるようですが、真相は穴があまりに長く深すぎるので、確かめられないのが現状のようです。

溶岩流中に認められる空洞を全て溶岩洞穴といたしますと、成因的には、様々な洞穴のタイプがあります。
①フィーディングパイプ型溶岩洞穴(富岳風穴がこのタイプです)
②ショーレンドーム型溶岩洞穴(鳴沢氷穴がこのタイプです)
③ブリスター型溶岩洞穴
④溶岩スパイラクル型溶岩洞穴
⑤溶岩樹型溶岩洞穴
⑥地下河川浸食型溶岩洞穴
⑦プレッシャーリッジ型溶岩洞穴

図:鳴沢氷穴のでき方
「鳴沢氷穴」のタイプです。
噴火の際、巨木などが溶岩流にのみ込まれ、徐々に冷めて溶岩が収縮する際、内部の高熱のガス体や溶岩が噴き出して残した空洞がこの洞窟です。
「鳴沢氷穴」は不規則型洞穴で変化にとんだ竪縦穴形式です。

図:富岳風穴のでき方
「富岳風穴」のタイプです。
流れ出る溶岩流の上部が内部より先に冷えて固まりますが、下部の溶岩流はそのまま流れ続け、その際に上部と内部との間に隙間ができ、固まった空洞が横穴式の洞窟です。
「富岳風穴」はY字型の横穴形式の洞穴です。

鳴沢氷穴2
「鳴沢氷穴」の入口です。

鳴沢氷穴1
天然の氷柱は冬にできて、初夏まで見ることができます。

鳴沢氷穴 ルートマップ 富岳風穴とならび富士山麓の代表的な溶岩洞窟の一つ。内部の気温は平均3度と低く、一年中氷におおわれていることから、この名がつきました。 天井からしみ出した水滴が凍ってできた氷柱は特に見ものです。4月ごろに最も成長し、年によっては直径50cm、高さ3mという巨大なものが見られます。氷穴は風穴の東方約800mにあり、竪穴環状形で総延長は153m。幅1.5m~11m、高さは1m~3.6m。環状になっているため、内部を一周することができます。 総延長150m 所要時間6~7分 平均気温3℃
「鳴沢氷穴」のルートマップです。

千葉県の鋸山と日本寺について

千葉県に鋸山と日本寺があります。

鋸山(のこぎりやま)は、房総半島の南部、千葉県安房郡鋸南町と富津市の境に位置する山です。
標高は329.4mで、房総丘陵の一部分を占めていますが、内陸部よりも海岸線(東京湾)に近い山です。
鋸山は凝灰岩から成り、建築などの資材として適しています。
そのため、「房州石」と呼ばれ、良質石材の産地として、江戸時代から盛んに採石が行われました(石切場跡は現在も残存しています)。
その結果、露出した山肌の岩が鋸の歯状に見えることからこの名で呼ばれるようになったそうです。
鋸山の正式な名称は乾坤山(けんこんざん)というそうです。
乾坤は天地の意味で、江戸時代には谷文晁さんが日本名山図会において日本80の名山のうちに数えたそうですが、深田久弥さんが改めて日本百名山を選んだときに選に漏れ、現在では名山という認識はあまり広まっていないようです(小林泰彦さんが選んだ「日本百低山」には入っているそうです)。
眺望は素晴らしく、東京湾一帯から伊豆大島まで見渡すことができます。
また近隣の安房三名山「富山」「御殿山」「伊予ヶ岳」を臨むこともできます。
鋸山にある日本寺は、今から約1300年前、聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けた行基菩薩によって神亀2年(西暦725年)6月8日に開山されています。
開山当初法相宗に属し、天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至っているそうです。
日本寺は開山当時、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模を誇り、良弁、空海、慈覚といった名僧が留錫(りゅうしゃく)したと記録されているそうです。
良弁僧正は木彫りの大黒尊天を彫られ、弘法大師(空海)は100日間護摩を焚かれ石像の大黒尊天を彫られました。
そして、仁王門の金剛力士像は慈覚大師の作と伝えられています。
1939年に登山客の失火による山火事で仏像や本堂を焼失し、さらに第二次世界大戦で鋸山が軍の要塞として使われた事もあり、当時の復興支援者の死去などで復興が遅れ、今なお復興中という状態となっています。
大仏や階段、幾つかの建築物の復興を経て、現在は本堂の復興が進められているところだそうです。
鋸山には「地獄のぞき」があります。
この「地獄のぞき」は、岩壁から一歩踏み出したような変わった地形で、高さはおよそ100mですが、切り立った大きな岩壁を見るとそれ以上に感じられるそうです。
近年では、パワースポットとして有名で、休日になると観光客で賑っています。
鋸山の地質ですが、新生代新第三紀中新世~鮮新世のころ、海底に堆積した火山灰からできた凝灰岩の山は前述しましたが、その地質構造としては、下図のように、上から順に、「竹岡凝灰角礫岩」「荻生火砕岩」「稲子沢泥岩」の3層になっています。
「竹岡凝灰角礫岩」は、、火山砕屑岩の一種で、火山砕屑物(テフラ)と呼ばれる火山灰や岩片などから形成された岩です。
構成する粒子や礫の大きさや割合によって分類され、軽石混じりの砂質凝灰岩が多いのが特徴です。
鋸山山頂付近に位置し、石質は粗く軟質で、淡褐色ないし黄褐色を呈し、質が均一で、霜や雨にも強く火にも変化しない性質があります。
「荻生火砕岩」は、火山の噴出物が堆積し固結してできた岩石です。
鋸山中腹以下や登山口石切り場に位置し、質が均一でなく、水や火にも弱いが加工しやすい性質となっています。
「稲子沢泥岩」は、主として泥岩からなり、うすい砂岩や凝灰質砂岩を挾む層です。
上層それよりも深部に位置しています。
この付近の石は、「房州石」(ぼうしゅういし)と呼ばれています。
これは、千葉県房総半島産の砂質凝灰岩の石材名で、鋸山産のものが特に著名で大規模に採掘されていました。
新第三紀鮮新世末期頃の上総層群下部の火砕岩なので「竹岡凝灰角礫岩」が主に採掘されていました。
大谷石に似ていますが、石材の性質は大谷石に劣っています。
耐火力が強いのでかまどの材料に好適で、土木工事などの捨石などにも使われていました。
駐車場から頂上までの150mほどの間には、鋸山で採掘された「房州石」の露頭も見ることができます。
また、ロープウェイの頂上駅には、『鋸山房州石資料館』があり、鋸山の地質や、「房州石」の採掘の歴史、道具、そして使われた建築物などの実物とパネル展示を見ることができます。
採掘の歴史として、
①室町時代
・安房・里見氏の出城(鋸城)で、柱のツカ石として使われました。
②江戸時代
・安政のころ、伊豆の石切職人が渡来し、鋸山周辺で建築用に石切りを始めました。(土丹岩)
・万延、元治、慶応のころになるとそれまでの悪い石(荻生火砕岩)から、質の良い石(竹岡凝灰角礫岩)の採掘が盛んになり、石切場も鋸山本峰に移りました。
・1859年、横浜開港に伴い、護岸工事や土木工事用として優秀性が認められ生産も大規模化しました。
③明治時代
・文明開化に伴い、房州石の需要はますます拡大し、京浜地方、特に横浜市、横須賀市の公共事業指定石材にもなり、金谷地区の総人口の80%が石材産業に従事していました。
④大正時代
・大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、多くの護岸が崩れ石積みの時代からセメント工法の時代に移ります。
(「房州石」の建築用材としても脆弱性を指摘する声もありましたが) 横須賀追浜天神橋護岸、横浜市高島桟橋護岸、さらに多くの石塀や石倉が今でも何の変状もなく現存しています。
⑤昭和時代
・セメントの進出により、「房州石」採掘も衰退し、さらに軍部の方針で、鋸山は登山禁止になりました。
わずかに、軍需用石材として、「荻生火砕岩」の採掘が細々と続けられました。
・戦後、採石も機械化され、一時パン焼きカマドなどに使用されましたが、昭和57年に採掘が中止となりました。
・採石場跡は、その奇岩、怪石とともに、その景観美は、国定公園として訪れる人々を楽しませています。

「房州石」の質は、一口で言えば”軟らかい”ことです。
これは、栃木県の「大谷石」など、凝灰岩に共通する性質です。
このため、「花崗岩」などの硬い石材と違い、採掘のため”発破(火薬)”などは使わず、石切場では、文字通り人力で”切り出す”採掘方法が長く続けられています。
切り出した石材は、”ネコ”と呼ばれる一輪車などで山を下り、平坦地から馬車やトロッコで港まで運ばれ、船積みされました。
昭和の時代に入ると、機械化され、ケーブル(鉄索)で平坦地まで下ろされた後トラックで各地に送られたようです。

参考までに、鋸山という山の名前は愛媛県にもあります。
愛媛県の鋸山は、標高1017mなので、千葉県の鋸山よりは777.6mも高い山です。
愛媛県四国中央市の翠波峰の西約3キロに位置し、法皇山脈の一ビークです。
やはり、名前のように鋸の刃のような緩やかな三角錐のピークの形状を示しています。
頂上付近は一枚岩が露出しており、眼下には四国中央市の街並みや瀬戸内海燧灘が眺望できるすばらしい眺めです。


この突起している岩盤からの覗きが「地獄のぞき」です。
切り立った大きな岩壁は危なっかしく感じます。
凝灰岩なので、亀裂が少ないから石を切っても一体化して安定しているのだと思います。

 
採石場跡の写真です。
採取された石材は、幕末から明治、大正、昭和にかけて、主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用されていました。
また、靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されているそうです。
自然保護規制の強化により1985年を最後に採石を終了し、現在鋸山は観光資源として利用されています。


採石場跡の断面図です。
江戸時代、質の良い頂上付近の「上石」である「竹岡凝灰角礫岩」を採掘したのですが、それらを堀りつくし、その後、下層の質の良くない「下石」である「荻生火砕岩」を採掘するようになりました。
下に、下にと掘り進むにしたがって、山の景観は、時代とともに大きく変化したようで、現在の鋸山の景観となったようです。


鋸山と日本寺の観光地図です。
ここへのアクセスには有料道路・ロープウェーなどで行けます。
地図だとそうでもないように見えますが、実際に現地に行ってみると中々道が入り組んでいてわかりにくいところみたいです。
案内看板は至るところにあります。

香川県の父母ヶ浜は「日本のウユニ塩湖」

「日本のウユニ塩湖」とも呼ばれている香川県三豊市の「父母ヶ浜」を紹介します。

瀬戸内の天空の鏡である「父母ヶ浜」(ちちぶがはま)は、約1kmのロングビーチを誇る穏やかな海水浴場です。
高松自動車道三豊鳥坂ICから県道220号線を西に向かって走ると瀬戸内海に出ます。
ここの仁尾公園の南隣の砂浜が「父母ヶ浜」です。
ここは遠浅の砂浜で、鏡のような水面を使った写真を撮ろうとする人が近年は多く訪れています。
「日本のウユニ塩湖」的な鏡面写真を撮るには、太陽光が強くなる夏場が最適だそうです。
しかし快晴の天気は不向きで、一定の雲がある夕刻、夕日の光がその雲から差し込む状態がベストとのことです。
つまり、絶景の写真を撮るポイントとしては、
①干潮と日の入り時刻が重なる時
②浜辺に現れる大きな潮だまりを利用
③風がなく水面が波立っていないこと
この3つの条件が整った時がベストだそうです。


写真手前の砂浜が「父母ヶ浜」です。
約1kmのロングビーチ 夏には多くの海水浴客も訪れています。
写真左には、大蔦島と小蔦島が見えています。
仁尾港沖の大蔦島と小蔦島は、ふたつ合わせて蔦島と呼ばれています。
仁尾港からつたじま渡船で、4月〜10月の間だけ大蔦島へ渡ることができます。
渡航時間はわずか7分で、夏には海水浴場・キャンプ場としても人気だそうです。


干潮時に風がなく水面が波立たなければ、砂浜にできる潮だまり(水たまり)に、天空を映し出す鏡のような光景を見ることができます。


この風情はまさに「ウユニ塩湖」そのものです。
夕方の頃には一層美しい光景が広がり、その美しい夕陽は「日本の夕陽百選」にも選ばれた事があります。
私たちが普通に瀬戸内海で見ている夕陽でも、上下対象となるとまた違った趣があります。

徳島県の渓谷「大歩危小歩危」

徳島県に、2億年の時を経て四国山地を横切る吉野川の激流によって創られた約8kmにわたる溪谷の「大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)」があります。

大歩危(おおぼけ)は、吉野川中流域に位置する渓谷(先行谷)です。
吉野川西岸に位置する、徳島県三好市山城町西宇地区の歩危茶屋付近から高知県長岡郡大豊町大久保地区の一部までと、その対岸となる徳島県三好市西祖谷山村の一部を指す総称です。
峡谷そのものを指す場合は大歩危峡(おおぼけきょう)と呼ばれています。
夏季には多くのラフティング・カヤック愛好者を集めるほか、百年以上の歴史がある大歩危峡遊覧船で知られています。
数km下流の小歩危(こぼけ)と共に、大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)として一括りにされることが多いのですが、この大歩危だけ、その間近に見える美しい岩石やV字谷の様子から日本列島の成り立ちがわかる全国的にも貴重な場所として、平成26年3月18日に、国指定の天然記念物に指定され、平成27年10月7日には国指定名勝となっています。
大歩危駅から下流側1キロメートルの国道32号線沿いに「ラピス大歩危」という、岩石・鉱物を展示した博物館があります。
また、こなきじじいの発祥の地とされ、150もの妖怪に関する伝説があり、妖怪村として地域おこしもしています。
地名の由来として、一般には「大股で歩くと危険」が「大歩危」の地名由来とされていますが、本来「ほき、ほけ」は渓流に臨んだ断崖を意味する古語だそうです。
「崩壊(ホケ)」とも書き、奇岩や怪石の多い土地を示しているようです。
「おおぼけ」という音に対して、文化12年(1815年)編纂の阿波史では「大嶂」の字を充てていたそうで、明治6年(1873年)の地租改正の際に当時の三名村は「大歩怪」の字を充てています。
地租改正の際に「こぼけ」には「小歩危」の字を充てており、後に「小歩危」に合わせて「大歩危」と表記するようになったそうです。
大歩危峡の地質は、三波川帯に属し、8千万年~6千万年前にできた変成岩類で構成されています。
大歩危は砂質片岩および黒色(泥質)片岩を主体として構成され、吉野川沿いは砂質片岩が多く露出しています。
変成岩中に礫の原型を留めた礫質片岩が含まれているものもあります。
大歩危の礫質片岩は含礫片岩として徳島県天然記念物に指定され、2014年3月18日には国の天然記念物に指定されました。
また2015年10月7日には「大歩危」として国の名勝に指定され、2018年(平成30年)2月13日には小歩危が追加指定されたうえで「大歩危小歩危」の名称に変更されています。

小歩危(こぼけ)も、大歩危と同じ吉野川中流域に位置する渓谷(先行谷)です。
吉野川東岸の徳島県三好市西祖谷山村新道と三好市池田町川崎の境界付近と、その対岸となる三好市山城町西宇の一部を指す総称でもあります。
峡谷そのものを指す場合は小歩危峡(こぼけきょう)と呼ばれています。
数km上流の大歩危(おおぼけ)と共に、大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)として一括りにされることが多く、「大歩危小歩危」の名称で国の名勝に指定されているほか、剣山国定公園にも含まれています。
小歩危峡の水流は日本一の激流と言われており、夏季には多くのラフティング・カヤック愛好者を集めています。
列車から見る場合には、小歩危駅周辺は、急崖のため、800mの間に7つのトンネルが連続しており、小歩危峡を眺められる時間は極めて短くなっているそうですす。
地名の由来としては、一般には漢字説(「小股で歩くと危険」)が有名ですが、昔から現在の漢字で表記していたわけではなく間違いだそうです。
「ほき、ほけ」は断崖を意味する古語であり、「こぼけ」という音に対して、文化12年(1815年)編纂の阿波史では「小嶂」の字を充てており、明治6年(1873年)の地租改正の際に当時の三名村は「小歩危」の字を充てたそうです。
小歩危峡の地質も大歩危と同じく、三波川帯に属し、変成岩類で構成されています。

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大歩危峡は、大理石の彫刻がそそりたっているかのような美しい景観を誇っていますが、前述したように三波川帯の砂質片岩が多く露頭しています。
急流のために、白波がたっているのがよくわかります。

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大歩危峡舟くだりです。
大歩危峡の美しい渓谷美を間近で見ることができる「大歩危峡遊覧船」に乗っているところです。
ベテラン船頭さんがガイドをしてくれます。

P4300074.jpg
3月下旬~5月末には、吉野川を悠々と泳ぐ鯉のぼりが見れます。
この時期になると、吉野川の対岸沿いと国道側にワイヤーを張って、各地から寄贈された鯉のぼりを飾ります。
私は、5月に行ったのですが、真っ白く硬質な砂質片岩と、急流のブルーの水の色だけでも素晴らしい景色なのですが、鯉のぼりがあるとまた風情が違いました。
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