奄美大島の「瀬戸内」

奄美大島には「瀬戸内町」、「高知山」などの地名があります。

「瀬戸内町」は、奄美大島の南部に位置し、加計呂麻島、請島、与路島という、奄美大島を含めて四つの島に点在する、大小56の集落(当地では「シマ」と呼ばれています)から成る自治体です。
この町名は、昭和31年に古仁屋町(こにやちょう)、西方村(にしかたそん)、実久村(さねくそん)、鎮西村(ちんぜいそん)の合併によって誕生しました。
合併前まで、この「瀬戸内」なる呼称は、宇検村の一帯も含めて「瀬戸内五カ村」とも用いていたことから、すんなりと反対意見なく決定したそうです。
私は、松山生まれなので、「瀬戸内」と聞くと「瀬戸内海」が浮かんできます。
奄美大島で、「瀬戸内」が使われているのはどうしてなのでしょう。
実は、この一帯を「瀬戸内」という言い方は古くからあったそうです。
加計呂麻島の須子茂に伝わっていた1595年(奄美諸島が琉球王国の支配下にあった頃)の古文書には、「せんとうち」という地名の呼称が平仮名書きで見えています。
したがって、「瀬戸内」という呼称は、「瀬戸内海」を真似て創られた地名ではないそうです。
もしかすると、波おだやかな海をさした言葉として、かつての琉球では、「せとうち」、「せんとうち」なる言葉を使っていたのかも知れません。
奄美大島と加計呂麻島との間には、大島海峡がありますが、この海峡は別称として、「瀬戸内」と呼ばれているそうです。
「瀬戸内」の由来は、ここから来ているのかも知れません。

「瀬戸内町」は、1936年(昭和11)古仁屋(こにや)町として町制施行し、1956年(昭和31)西方(にしかた)、鎮西(ちんぜい)、実久(さねく)の3村と合併します。
山地が海に接するリアス式海岸で湾奥に集落が散在し、第二次世界大戦中は軍港としてにぎわい、要塞司令部もあったそうです。
地質は、全域を通じて古生層で、基盤岩は、砂岩、粘板岩、輝緑凝灰岩等で、一部に石灰岩もあります。
国道58号が通じ、奄美市街地や奄美空港とを結び、奄美航路の定期船が古仁屋港に寄航します。
また、町営・民営のフェリーボートや定期船が古仁屋と各集落とを結んでいます。
産業としては、サトウキビ、畜産、紬(つむぎ)、水産養殖などが行われていますが、過疎化が著しくなっています。
大島海峡は奄美群島国定公園に指定されています。
加計呂麻島の諸鈍(しょどん)に伝わる「諸鈍芝居」は国指定重要無形民俗文化財です。
2010年の国勢調査では、人口9874人です。

「瀬戸内町」には、「高知山」があります。
「こうちやま」の名前の由来は不明だそうですが、元々、奄美大島の各所に山の地名としてみられる「タカバチヤマ」という呼び名であったものが漢字表記されるとともに、それが音読みされたことに由来するのではないかという説があります。
「高知山」には展望台があり、瀬戸内町一帯を一望できる絶景地です。
どうも、四国とは特に関わりはないようです。


「瀬戸内」と呼ばれている大島海峡です。
加計呂麻島(かけろまじま)の東端にある安脚場戦跡(あんきゃばせんせき)は、太平洋戦争中に旧日本海軍が泊地としていた大島海峡を防衛するための施設が置かれていたところです。
安脚場は、もともとは1920年(大正9年)頃から旧日本陸軍が砲台を設置していましたが、1941年(昭和16年)から海軍によって砲台として整備されて利用されるようになりました。
この際に大島海峡東端に設置した防潜網や管制機雷を遠隔操作する金子手崎(かねこてざき)防備衛所が建設されました。
戦後、連合軍によって武装解除を受けたが、今でも弾薬庫や防備衛所の建物が残存していて、現在は公園として整備されています。
愛媛県でも、「瀬戸内海」の小島に、1902年(明治35年)旧日本陸軍が砲台を設置していました。
設置時期もよく似ています。


奄美南部の瀬戸内町を一望できる「高知山」展望台です。
古仁屋(こにや)と阿木名(あぎな)を結ぶトンネルに入らずに旧道の地蔵峠を登っていくと「高知山」展望台と油井岳展望園地に行くことができます。
「高知山」展望台は駐車場から少し森の中の遊歩道を歩き、階段を登ってしばらく歩くと展望台が現れます。
らせん状の階段を登るごとに視界が広がります。
「高知山」の展望台に立つと、大島海峡を東から西まで、加計呂麻島を全部見渡すことができます。
第二次大戦末期の話ですが、戦局が悪化していったことで、それまで古仁屋に置かれていた防備の中心は、陸軍は徳之島へ、海軍は喜界島に、それぞれ滑走路を建設するために移っていったそうです。
そうしたなか、古仁屋の基地は、「高知山」の山手付近に移転していったそうです。
その具体的な場所についてまだ未調査ですが、およそ現在の展望台のある広場近辺ではなかったかとみられています。


金子手崎(かねこてざき)防備衛所は、1931年(昭和16年)に構築された施設で、戦時中大島海峡に潜水艦の進入を防ぐための防潜網並びに、機雷等を布設し、潜水艦の接近を監視し、更に進入した場合、機雷を爆破させる施設で、これ等はすべてこの防備衛所でコントロールされていました。


弾薬庫跡です。
この山頂には、1920年(大正9年)頃から旧陸軍の砲台が設置されていました。
その当時は砲弾の格納庫として構築されましたが、1931年(昭和16年)に旧海軍の砲台が設置されていから旧海軍が砲、高角砲の弾薬庫として活用しました。
この施設も、「瀬戸内海」にある小島の弾薬庫跡とよく似ています。 


「瀬戸内町」の地図です。
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今日は、八十八夜

今日は、八十八夜です。

八十八夜(はちじゅうはちや)は「雑節」のひとつで、立春から数えて88日目です。
もともと、太陰暦がベースである日本の旧暦では暦日と季節が最悪で半月もずれるために、太陽暦をベースとした雑節としておこり広まったものだそうです。
「雑節」は、立春や啓蟄、春分といった「二十四節気」を補完するもので、一般に「雑節」と呼ばれるのは、次の9つです。
・節分
・彼岸
・社日
・八十八夜
・入梅
・半夏生
・土用
・二百十日
・二百二十日
これに、初午・三元を元にした上元(前半年の最初の望月、小正月)、中元(3番目の四半年の最初の望月、盂蘭盆)、下元(4番目の四半年の最初の望月)、大祓を加える場合もあるそうです。
では、なぜ立春から数えて八十八日目をこう呼ぶようになったのでしょう。
それは、農業に従事する人びとが多かった昔の日本社会で、ちょうどこの頃が種まきや田植えの準備、茶摘み、蚕のはきたてなど春の農作業を行う時期にあたっていたからだそうです。
八十八夜の数日後には二十四節気でいう「立夏」になることもあり、昔の人びとはこの時期を「夏の準備を始める目安」ととらえていたそうです。
このように、八十八夜は春から夏に移る節目の日で、夏への準備をする決まりの日とされてきました。
「八」の字は、「末広がり」の姿をしていることから、幸運を呼ぶとされてきました。
その「八」の字が二つ重なった「八十八夜」は、それだけに縁起のいい日と考えられていました。
また、「八」「十」「八」の3つの字を組み合わせると「米」という字になるため、とくに農業に携わる人びとに大切にされてきたのだと言われます。
しかし「八十八夜の忘れ霜」「さつき寒」とも言い、急に気温が下がって霜が降り、農作物や果樹に思いがけぬ被害を与えることを警戒した言葉もあります。
「霜なくて曇る八十八夜かな」
これは、正岡子規の句ですが、現在でも、農家では霜除けのよしずを取り払ったり、苗代の籾巻きを始めたり、というならわしを行っているところが多く、天然自然の暦に則って季節を迎えることが無病息災の祈りだった古人の知恵を受け継いでいるところも数多く見られます。

【茶摘】
夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは 茶摘ぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠
日和つづきの今日此の頃を 心のどかに摘みつつ歌ふ
摘めよ 摘め摘め 摘まねばならぬ
摘まにや日本の茶にならぬ

八十八夜とお茶が結びついたのは、上の茶摘みを歌った唱歌の影響も大きいようですが、実際には茶産地の温暖差によって茶摘みの時期は異なります。
新茶時期の出始めは、新芽を手で摘んだ上質なお茶が手摘み茶として、その後摘み取りのピーク時にはハサミ摘みや機械摘みとなります。
八十八夜に摘み取られるお茶は、古来より不老長寿の縁起物の新茶として珍重されています。
茶摘み最盛期である八十八夜は、縁起を担ぐという意味合いと気候条件も含めてこの時期のお茶は極上だそうです。

八十八夜の歌は、私にとっては「茶摘」よりも思い出があるNSPの「八十八夜」という歌があります。
【八十八夜】
引き出しの中からあの人の写真 みんな捨ててしまったはずなのに
今はもう黄ばんでしまっていて 泣き顔か笑い顔か判らない
あの人の思い出にピリオドを打って 明日嫁ぎます
もうすぐ八十八夜 もうすぐ暖かくなる
もうすぐ八十八夜 もうすぐ幸せになる
こんな夜にあの人の電話 遠くで懐かしさが話しかける
本当はあの人に手を引かれ 一緒の人生を歩きたかった
昨日までのあの人を忘れられないのは 私の弱さでしょう
もうすぐ八十八夜 もうすぐ暖かくなる
もうすぐ八十八夜 もうすぐ幸せになる
写真が黄ばむようにあの人とのことも 色あせて行くのかしら
もうすぐ八十八夜 もうすぐ暖かくなる
もうすぐ八十八夜 もうすぐ幸せになる
あの人の思い出にピリオドを打って 明日嫁ぎます
もうすぐ八十八夜 もうすぐ暖かくなる
もうすぐ八十八夜 もうすぐ幸せになる

寂しげな歌ですが、季節の変わり目の八十八夜が近づき、決心する女性の心の中を歌ったものですが、八十八夜の意味さえ知らない頃だったので、「なぜもうすぐ暖かくなるのかな?」とか、不思議に感じながら聞いていました。
ちなみに、前述した「八十八夜の別れの霜」にちなみ、バレンタインデーから88日後の5月13日頃を「メイストームデー」と制定し、カップルが別れを切りだすのに縁起の良い日と言われています。
「八十八夜の別れの霜」ですが、幾つかの都市の遅霜の記録を調べてみると次のようになります。
・鹿児島  3/11(4/22)
・福 岡  3/21(5/11)
・京 都  4/09(5/19)
・大 阪  3/19(5/06)
・名古屋  3/29(5/13)
・東 京  3/13(5/16)
・仙 台  4/18(5/20)
・札 幌  4/25(6/28)
最初の日付が、毎年の遅霜の日付の平均で、後の()内の日付はその都市で最も遅い遅霜の記録日です。
()内の記録的な遅霜は特別と考えれば、八十八夜以降には霜が降りないといっても間違いはなさそうです。
したがって、八十八夜は、一年を大きく夏と冬に分けるとすると、八十八夜から先は夏の領分ということになりそうです。

「ノアの方舟」伝説に想う「住みやすい地球」

「ノアの方舟」伝説があります。

「ノアの方舟」とは、旧約聖書の「創世記」に書かれている物語に登場する船のことで、これは実話だと言われています。
その物語によると、今から4500年ほど前、人類の祖であるアダムから数えて10代目の子孫に「ノア」という人物がいました。
ノアは、神に信仰を寄せる唯一の人で、それ以外の人々は堕落し、神など信じることなく好き放題していました。
地上の人間たちの行いに憤りを感じた神は、大洪水を起こし、この地上を滅ぼそうと考えたのです。
しかし、ノアとその家族だけは神に信仰を寄せていたため助けることにしました。
そこで神はノアとその家族にこう告げます。
「私は人間を地と共に滅ぼすことを決めた。お前(ノア)は自分のために、ゴフェルの木で船を造りなさい。船の中には仕切り室を作り、内側、外側をタールで覆いなさい。船の長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトにする。船には屋根を作り、入口を側面に作り、3階構造で作りなさい。そして、お前とお前の妻、お前の息子たち、息子たちの妻も船に乗りなさい。また、あらゆる動物の雄と雌を二匹ずつを船に乗せなさい。」
神はこのように告げ、ノアに方舟を作らせたそうです。
長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビトという単位は、およそ長さ133m、幅22m、高さ13mだそうです。
ノアは約100年の歳月をかけて、神のお告げの通りの方舟を作り、方舟にあらゆる動物を雄雌それぞれ2匹ずつつ乗せました。
人間には寿命があって、ノアが一代で100年かけて船を作れるはずがないと思いますが、実は、アダムからノアまでの系譜を見てみると、一部を除き900歳を超える人ばかりだそうです。
現代人の寿命からして考えにくいことですが、ノアの大洪水をターニングポイントにして、人間の寿命は段々と減っていき最大で120歳位となったそうです。
家族と一緒に方舟に乗り込み、それから7日後に大洪水が起きました。
ノアの大洪水が起きた時のノアの年齢は600歳位だそうです。
洪水は40日40夜続き、全ての山が水に覆われました。
これにより、方舟に乗れなかった地上の生物は全て息絶えたそうです。
その後、大洪水の中を約150日間漂った後、徐々に水が引き、方舟は「アララト山」に漂着します。
それから時間が経つにつれ、山々の頂が現れはじめます。
その40日後、ノアは、地から水が引いたか確かめるために、方舟から一羽の鳩を放ちます。
しかし鳩は、とまる場所がなかったので直ぐに方舟に戻ってきます。
その7日後にノアは再び鳩を放ちます。
すると夕方頃にオリーブの葉をくわえて戻ってきたため、これによってノアは地から水が引いたことを知ります。
ノアは、さらにその7日後、鳩を放ちますが、もう鳩が戻ってくることはありませんでした。
これで完全に水が引いたことを知ったノアは、自分の家族と動物たちを方舟の外に出したのです。

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この神話のイメージ図です。
その後、ノアは祭壇を造り、生贄のために用意していた動物を神に捧げます。
これにより、神は二度と洪水で生き物を滅ぼすことはないと約束し、空に虹を与えたのです。

このような内容の神話ですが、実はこれはただの神話ではなく、実際に起きた事実なのではないか?と考えられています。
この証拠として、1959年に「ノアの方舟」らしき遺跡が発見されています。
発見された場所は、トルコにある標高5137メートルの「アララト山」の山腹です。
しかし、多くの専門家が現地調査を行いましたが、確定的な証拠を見つけるに至らず、遺跡は自然の地形と推定されるようになります。
ところが、1977年から、再度数年間に渡って精密な調査が行われ、その結果、遺跡は自然の地形ではないことが判明し、「ノアの方舟」だったことが確認されたそうです。

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これが「ノアの方舟」が漂着した遺跡です。
世界中の専門家によって、より念入りな調査が行われるようになりました。
1977年には正式な調査チームが派遣されて、考古学者のロナルド・ワイアットと言う人を筆頭にアララト山で船の形をした巨石を発見します。
その石にはロープを通した穴もあったそうで、その他、錨に使われたと思われる石も発見されたとの事です。
方舟の大きさや形状においても、聖書に示されたものと一致しているそうです。
方舟は、長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト、これは先に述べたように、およそ長さ133m、幅22m、高さ13mです。
この「長:幅:高」の比率は、現在の大型船を造船する際に、最も安定しているとされる比率とほぼ同じだそうです。
このような調査で、「ノアの方舟」が実際にアララト山に漂着したことは間違いないと言われています。

このように、「ノアの方舟」は、実話だと言われていますが、歴史学者から地質学者に至るまで専門家の間では、聖書に記された世界的な大洪水は「現実にあったと理解されるべきだが、それは世界的規模のものではなく局地的なものだった」と考えられています。
この一方で、大洪水は実際に世界中に及んだことを証明する事実も存在しています。
それは、下の写真にあるような「多層貫通化石」と呼ばれるもので、堆積した地層を垂直方向に貫通する巨大な木の幹の化石です。
数十mにも達する厚みを持った地層は、常識的には何百年もかかって形成されるべきものでありますが、木の幹が垂直な形で化石化した層は、わずか数日か数週間のうちにできたらしい事が分かっています。
これは、例えば、大洪水によって、巨大な森が一瞬にして飲み込まれるといった状況が想像されます。
聖書の中に記述された洪水の事実は、貝や魚などの化石が、現在海からはるか遠い場所、それもエベレストも含めた山の頂上から発見される事も物語っています。
この事は、古代には海が今よりもずっと深かった事を意味するものではなく、山々は現在のように高くなく、大洪水をもたらした地球のマントル内部の緊張の結果、地面あるいは水面が隆起したのだと考えられています。

私には、このような証拠があってもなお、「ノアの方舟」は信じたくありません。
人間が900年生きるなんてことだけでも嘘っぽく聞こえます。
でも、2000年からでも、2000年 ( 1件) 、2002年 ( 3件) 、2005年 ( 4件) 、2006年 ( 3件) 、2007年 ( 13件) 、2008年 ( 6件) 、2009年 ( 7件) 、2010年 ( 23件) 、2011年 ( 37件) 、2012年(4件)、2013年(7件)、2014年(8件)、2015年(15件)2016年(11件....5月30日まで)これだけの大洪水が世界のどこかで発生しています。
「ノアの方舟」は、人類への警鐘だと思います。
「これ以上森林を破壊すれば」とか「原発を稼動し続ければ」とか、地球にとっては、人類を滅亡させてでもリフレッシュしたい気分だと思います。

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この写真は、カナダのノバスコシア州にある「多層貫通化石」と呼ばれる木の化石です。
「破滅の化石」とも呼ばれ、立ったままの状態で「積した地層を垂直方向に貫通する巨大な木の幹の化石」となっている森の木です。
常識的には大変に長い時間がかかって形成されるこの状態に疑問を持った科学者たちは、これは「突然の何か」によって木々が立った状態のまま化石となったと判断しました。
そして、それは「突然の大地の沈降」か、「突然の大洪水だった」と考えられています。

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この「エベレスト山頂部から見つかった貝の化石」の写真は、1960年代にエベレストの4,000mから6,000mのチョモランマ層から発見されたアンモナイトの化石です。

愛媛県の「ミンマ」について

先日、愛媛県だけの独特の行事である「ミンマ」について、当ブログで説明しました。

「ミンマ」は、その年に亡くなった人のお正月のことだと書きました。
その通りなのですが、この行事の由来については諸説あるようです。
諸説①として、戦国時代に、高縄半島を中心に勇猛を誇った武将たちの出陣の祈りと言われ、生きて祝えないかも知れない正月を一足早く12月の巳の日に祝った
諸説②として、豊臣秀吉の朝鮮出兵の帰途に、松山市高浜町の海岸で、戦死した兵士を弔うために餅をつき、それを朝鮮に向けて供え、跡でみんなが竹に餅をさして食べた慣習が残った
このような説が有力だそうです。
いずれにしても愛媛県がほとんどで、高知県、徳島県、香川県でもしているところはありますが、すべて愛媛県との県境の地区のみだそうです。
坊さんは呼ばず、お墓に杖と草履を飾り、しめ飾りを燃やし、餅を焼いて、その餅をみんなでひっぱりながら食べるだけです。

我が家の「ミンマ」も無事終わりました。
四十九日とほぼ同じ人を呼ぶのが礼儀だそうです。
ただし、お包みは紅白の袋で「お年玉」を多くいただきました。
地方によっては、「御仏前」のところもあるし、黄白の袋で「御供」のところもあるようです。


愛媛県で「ミンマ」と呼んでいる行事

愛媛県では「ミンマ」と呼んでいるお祝いの行事があります。

今年の盆前に、私の父が亡くなって、バタバタと葬式や法事を済ませたのですが、母が、「ミンマはいつにする?」と言ってきたので、何も知らない私は、この「ミンマ」について調べることになりました。
調べたところ、「ミンマ(巳午)」とは、「仏さんの正月」とも言われ、12月の巳の日に、その年に亡くなった人のための正月を祝う行事だそうです。
12月の巳の日を調べると、1、13、25日の3日しかないので、この3日のうちでみんなの都合のいい日を決めることになります。
私は松山生まれなので「ミンマ」という言葉はよく聞いてはいたのですが、調べたところ、この行事は四国以外では見ることのできない全国的に珍しいものだそうです。
そして、四国内でも全域で行われているのではなく、愛媛県内では全市町村で行われるものの、香川では愛媛県寄りの西讃地域のみで、徳島県、高知県でも愛媛寄りの四国山地や幡多郡にのみ行われているそうです。
名称については地域差があり、愛媛県では、松山市や宇和島市、八幡浜市などの中予地方と南予地方では「ミンマ」と呼ぶのに対し、新居浜市、西条市などの東予地方では「タツミ」と呼んでいるそうです。
これらは、行事が行われるのが巳と午、辰と巳の日であることに起因するものだそうです。
また、越智郡では「ミショウガツ」といい、この行事が巳の日を中心に行われていることが理解できます。
また、上浮穴郡や周桑郡では「カンニチ」とも言いますが、これは陰陽道でいう凶日である「坎日」からきているものだそうです。
12月の巳の日は坎日とされており、「ミンマ」が陰陽道の知識から発生したと推測できます。
「ミンマ」の行事内容としては、
①自宅に簡単な祭壇を設け、位牌を祀り、餅、注連飾り、菓子、果物などを供えます。
②家族、親族が墓参し、墓前に柿の木枝を二本立て、注連縄をはり、一升餅、みかんや干柿などを供えます。
その際に、注連縄は左ないのものを使います。
③墓前にて、死者の身の近い者が餅を後手に持ち、鎌で切って、墓参者に配って食べます。
そして、この「ミンマ」の一番の特徴は、法事とは違い、お寺のお坊さんは呼ばないことです。
四十九日に来てもらったほとんどの人を招待し、お墓に行った後に料理を振舞って亡くなった人を偲びます。
お酒を出す家庭も多いと聞きますが、私の親族は飲まない人も多いので今回は出しません。
松山市ではどこの家庭でも12月に行いますが、八幡浜市では12月が忙しいからといって、11月に行うことが多いそうです。
また、八幡浜市の双岩では、仏さんが女性の場合は巳の日に、男性の場合は午の日に「ミンマ」を行うとされています。
「ミンマ」は、仏さんの正月を祝うとされるものの、実際の正月とは異なる点が多いのが特徴です。
①門松ではなく、柿の木枝を用いること
②注連縄は逆のない方であること
③餅は塩あんの餅であること
④餅は順手ではなく、肩越しに渡さなければいけない
など奇妙な作法があります。
これは、正月の類似儀礼ではあるものの、あえて逆のことをして、亡くなった人のための儀礼であることを表わしているのだと言われています。
そして、「ミンマ」を祝うことで死者のケガレと決別し、忌明けとするそうです。
この行事は家族、親族がその年の不幸を断ち切り、新たなる年を迎えるための知恵から生まれたものとも言われています。
また、「ミンマ」の餅を食べると病気をしないという俗信もあります。
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