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「雲母」は「きらら」と呼ぶの?

「雲母」について調べてみました。

少しでも岩石を知っている人なら「雲母」という鉱物名は知っていると思います。
実は、日本人の姓でも、この珍しい「雲母」という姓があるそうです。
静岡県に多く、特に小笠郡菊川町吉沢に集中してみられるそうです。
また、北海道にもみられるようです。
そして、「雲母」は、当然「うんも」と読むかと思いましたが、「きらら」と読むそうです。
姓の由来としては、雲母(うんも:鉱石)の産地であり、きらきらと光ることから名前がついたそうです。
そして、この「雲母」と、「きらら」≒「吉良」とは深い関係があるようです。

「吉良」と言えば、真っ先に吉良上野介を思い出しますが、もともと吉良家のルーツは清和源氏で、源義家(八幡太郎)の孫に当たる足利義康(よしやす)を始祖としているそうです。
義康は父から下野国足利庄(今の栃木県足利市)を贈与されて拠点としていました。
後の足利幕府を担う足利氏のルーツもここになるそうです。
三河の吉良氏はこの足利の流れから誕生しているそうです。

愛知県では、幡豆郡に「吉良町」(きらちょう)がありました。
2011年4月1日に西尾市に編入され、現在では表面から姿を消してしまいましたが、名鉄の駅名として「吉良吉田駅」はまだ健在だそうです。
そして、この地は江戸の高家として名高い吉良上野介義央(よしなか)公が治めていたところです。
足利義康の孫に当たる足利義氏(よしうじ)という人が、三河国吉良荘を与えられてこの地に赴任したのが発祥だそうです。
義氏はこれを機に「足利」姓を改め「吉良」姓に変えたそうです。
これは、言うまでもなく、この地が「吉良」という地名だったからということになります。

そして、「吉良」はどんな意味かというと、それが「雲母」に由来するそうです。
「雲母」はアルカリ性金属・鉄・アルミニウムなどを含む六角状の結晶でうすく剥がれる性質を持っています。
その光沢が美しいことから「きらら」とも呼ばれてきたそうです。
つまり「雲母」と書いて「きらら」とも読むことの由来です。
その「きらら」から「吉良」という地名が生まれたことを知って、義氏は姓を「吉良」に変えたそうです。
実際、この地に雲母が採れたという証拠もあります。
平安時代に出された『続日本紀』の元明天皇記に和銅6年(713)、大倭・三河の両国から「雲母」(きらら)を「輸納」させたと書かれています。
その雲母が採れたのは旧吉良町北部にある八ツ面山(やつおもてやま)別名「きらら山」だったとされています。

元禄14年(1701)に起こった赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の江戸城内での刃傷(にんじょう)事件の後、吉良上野介は翌年討ち入りによって殺害されてしまいます。
その後ドラマ化された「忠臣蔵」「赤穂浪士」などで吉良上野介は一方的に悪者にされてきた感があります。
これは、地元の人にとっては遺憾というしかないそうで、何故かというと、いかなる理由があろうとも殿中で刀を抜いたのは浅野長矩であったのは事実だからだそうです。
吉良上野介は地元に多大な貢献をしたことで知られています。
特に治水工事で知られ、洪水に悩まされていた「鎧ヶ淵」と呼ばれていた沼地に全長180mの堤を一夜にして築かせ、人々を驚かせたそうです。
その結果稲穂が豊かに実るようになったことから「黄金堤」(こがねづつみ)と呼ばれたそうです。
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道後温泉本館の「振鷺閣」

道後温泉本館の「振鷺閣」を紹介します。

道後温泉本館の太鼓楼を「振鷺閣」(しんろかく)と呼んでいます。
その窓には明治時代に建てられた時から赤いギヤマンがはめ込まれています。
赤いギヤマンが、なぜ採用されたのかはわかりませんが、当時ハイカラの最先端だったギヤマンを使うことで温泉客を集めようとしたのでしょうか。
ここで、一日3回、刻太鼓が打ち鳴らされています。
道後温泉は、現在は松山市の管理ですが、「松山俚人談」によると、元禄から明治維新までは新居郡金子城主金子備後守の末裔である明王院(修験道場)金子さんが温泉の鍵を預っていたそうです。
明治初期には、明王院に代わって経営機関として原泉社が組織されました。
そして、1891年には道後湯之町の町営となり、ついで湯之町中央に木造3階建て入母屋造の道後温泉本館に「振鷺閣」も完成しました。
かつては源泉は1ヵ所しかなく、温泉客はみな本館の浴槽を利用したそうですが、1955年からボーリングを実施して源泉が増加し、周辺旅館に内湯として引湯されたそうです。
「振鷺閣」ですが、夜はライティングされて幻想的だそうです。


道後温泉本館に「振鷺閣」が見えます。
赤いギヤマンも目だっています。
頂部には、温泉を発見したという伝説の白鷺がいます。

「振鷺閣」の画像検索結果
神の湯本館は珍しい木造三層楼です。
太鼓楼の格天井に吊るされた太鼓は、時刻を告げる「刻太鼓」といわれ、朝・昼と夕方だけ鳴らされるそうです。

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道後温泉本館の正面です。
道後温泉本館は、伝統的な純和風の楼閣建築です。
トラス構造の様式小屋組みが用いられるなど、近代化の影響を受けた建物です。
神の湯本館が建てられたのは明治中期です。
その翌年に皇族入浴用棟である又新殿・霊の湯棟、さらに大正末期に南棟及び玄関棟が増設されました。
設計・施工は、代々松山藩の城大工棟梁の家柄であった坂本又八郎さんです。
重要文化財の木造3(一部2)階建て、塔屋付です。

江戸時代に建築された小采家住宅

江戸時代に建築された山間部民家で、国の重要文化財に指定されている小采家住宅を紹介します。

小采家住宅は、旧三好郡東祖谷山村の栗枝渡(くりしど)集落(標高650m)に建っていたものを旧祖谷山村が買い上げ、昭和58年(1983)8月に、現在の菅沼集落に移築・復元したものです。
国指定の重要文化財(建造物)には、昭和51年2月3日に指定されています。
かってあったとされる棟札や構法などから、江戸時代の天保年間(1830~1844年)の建築といわれています。
建物は、屋根が寄棟造(よせむねづくり)の茅葺きで、棟に「とうら」と呼ばれる茅を束ねた棟飾りがあります。
規模は、間口5.5間(10.8m)、奥行3間(5.9m)で、外観は土壁を風雨から守るためのヒシャギ竹と呼ばれる割竹で覆われ、正面中央に前便所が設けられています。
内部は、間口を左右に二分して、左手手前が土間のニワ、左手奥をカッテバ、右手を「一間取り」と呼ばれるオモテがあります。
構造には、祖谷地方では江戸時代中期以降にみられるオトシコミと呼ばれる独特の構法が用いられています。
古い民家が次々と姿を消す中で、小規模ながら祖谷地方の農家の特徴的な間取りや構造をもつ貴重な建造物として貴重なものだそうです。

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小規模ながら祖谷地方の特徴的な構造や間取りを持つ貴重な建物として、昭和51年に国の重要文化財に指定されたそうです。
昭和58年に、移築・復元したとのことで、まだまだ外観は新しく見えました。
でも、こんな茅葺き屋根は、40年以上前には田舎ではどこにでも見られたと思います。
我が家も、その頃は茅葺き屋根で、その上からトタンを敷き詰めて青色の屋根にしていました。
今は、茅葺き屋根を見ると情緒があると思えるのですが、昔はかっこ悪い屋根の代表だったと思います。

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農家の玄関を入ると、このように土間があって、そして石の段差があって、ここから家に上がるしくみでした。
懐かしさを感じます。

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このような囲炉裏は、我が家にはなかったです。

中国の塔雲山の絶壁の上にある「山の上の道教寺院」

中国の塔雲山に「山の上の道教寺院」と呼ばれている道教古建築群があります。

塔雲山は、陝西省鎮安県南西部にあります。
鎮安県城より西35kmの柴坪鎮境内に位置し、主峰の金頂は海抜1665.8mです。
ここは、「秦嶺第1仙山」と称されています。
秦嶺(しんれい)は、中国中央部、甘粛(かんしゅく)省・陝西(せんせい)省の南部に東西に連なる山脈のことで、ここでの中国の有名な道教の景勝地という意味だと理解しました。
塔雲山は、険しく、珍しく、そして美しく、非常に不思議な壮観で有名な山になり、古い道教文化が残るだけではなくて、きらびやかな自然風景もまたすばらしいようです。
険しい峰、奇岩、古松、雲海、奥深い穴、峡谷、密林などが道教の寺院と一体となり、まるで、すべてが自然で、神秘的なものとなっています。
このような情景は、鎮安旧誌によって“邑西仙境”と呼んでいるそうです。
塔雲山は、宝塔のような形をしているそうです。
雲の中にそびえていることが多く、“金頂が青空を刺して、松海や雲霧間にあり”との言葉があるそうです。
塔雲山の道教古建築群は、明正徳年間(1505年―1521年)に建てられているそうなので、この現存している塔雲山古建築は500年余りの歴史を持つことになります。
道教古建築群は、1観、1塔、1廟、1堂と9殿から成っているそうで、風格は古風で質朴ですっきりしているそうです。
清の第6代皇帝(在位期間は、1735年10月8日 - 1796年2月9日)である乾隆帝からは、5回ぐらい塔雲山の古建築を修繕したことがあるそうですが、風雪に耐え、こうして立派に残っているのは不思議なようにも思えます。
一番上の「金頂観音殿」は塔雲山の頂上に建てられ、周りの3面は絶壁だけでなく、底知れぬ深淵であり、“金頂にて流れる雲を見て、まるで仙境に入る思いがする”という心境になるそうです。
この付近には、塔雲山だけでなく、チョウ頂山、臥竜峰、伏虎峰などの山々があり、象形石風景があります。
蛭石、蝋燭石、臼石などの奇怪な形の巨大石もあり、また龍鳳松、白皮の松、ひたむきな藤などの形の奇抜な珍しくて貴重な植物もあります。
深緑、森林被覆比率は98%に達するそうで、1300多種の植物があるそうです。
したがって、春は山の花が咲き、夏は新緑に包まれ、秋は紅葉で綺麗に色づき、冬は霧松が美しいということになります。
これは日本でも全く同じなのですが、このような切り立った絶壁で見られるとなると、一季一景一世界、四季それぞれに、より美しい景色を楽しむことが出来ると思います。
500数年ほど経った、今でもここへお線香をあげにくる人が依然として多いそうです。
1年三大廟・寺の縁日、旧暦の毎月の初一、十五日、秦楚と中原の辺りから数千参拝者がここに集まって来て、その時は人が多くて人込みの中を、押し合いへし合いの状態で進むそうです。
そして、神に礼拝して幸福を祈るそうです。

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このような絶壁に造られて500年ですか?
現存しているのが不思議な感じがするのですが、実際に行ってみると案外建物や岩盤は安定しているのかも知れません。

徳島県のいやしの温泉郷に咲くハンカチノキ

徳島県三好市東祖谷のいやしの温泉郷にハンカチノキがありました。

ハンカチノキ(学名:Davidia involucrata)はミズキ科の落葉高木ですが、分類体系によってはヌマミズキ科に分類されることもあります。
中国の四川省・雲南省付近が原産で、属名のダビディア (Davidia) で呼ばれることも多いそうです。
花についた白い大きな2枚の苞葉が垂れ下がりよく目立つため、日本では「ハンカチの木」や「幽霊の木」などと呼ばれ、英語では"Handkerchief tree"、"Ghost tree"、"Dove tree"(鳩の木)などというようです。
花はハナミズキのような頭状花序になり、2枚の苞葉(ハナミズキの場合は4枚)に囲まれています。
果実は堅果で複合果となります。
現在では世界的に栽培されているようです。
標高1200m~1500mの日当たりのよい斜面に自生し、生長すると樹高20mに達し、幹の直径は1mにもなるそうです。
葉は縁にぎざぎざがあり、裏側を見ると葉脈の部分が盛り上がっています。
春に葉を広げると同時に枝から短い柄を下向きに伸ばして花を咲かせます。
花は白く色づいた苞と呼ばれる大きな葉っぱが2枚と花の本体からなり、花びらはありません。
花の本体は苞にくるまれるよう中心に付き、たくさんの雄花と1本の雌花が集まってピンポン球のように丸くなります(両生花)。
中には雄花のみで雌花の付かない花もあります(雄花序)。
花は開くと独特の臭いを放ち、ハエなどの虫が寄ってきます。
花は咲き始めから1週間前後が見頃で、その後は苞が落ちていきます。
苞には落ち方が二種類あり、雄花序苞はきれいな状態で2枚くっついたままぽとりと落ち、両生花の苞はしおれて黄色く変色してからばらばらに落ちます。
花後は表面がざらざらした直径2cmほどの果実ができ、秋に熟します。
属名のダビディアはこの植物を発見したフランス人の神父であり生物学者であるアルマン・ダビット (Armand David) の名前にちなみます。
ダビット神父はジャイアントパンダを発見した人物としても有名です。
和名の「ハンカチノキ」や別名の「ハトノキ」は大きな白い苞に由来します。
日本に入ってきたのは1952年、アメリカからタネを入手して苗木を育てたのが最初です。
このときは2本の苗木が育ち、そのうち1本は1965年に初めて開花しましたがその後2本とも枯れて現在はありません。
日本に現存する最も古い木は1958年頃にタネから育てられたもので、小石川植物園に植えられているそうです。
日本でも広く出回るようになったのは1991年頃に中国から苗木とタネが大量に輸入されてからだそうです(それまでも少量ずつ苗木の輸入はされていました)。

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東祖谷のいやしの温泉郷にあるハンカチノキです。

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白い鳥がとまっているように見えます。

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クローズアップすると、白く色づいた苞と呼ばれる大きな葉っぱが、花びらのように見えます。
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