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海城について

海城について調べてみました。

海城(うみじろ)は、水運を押さえるため海に直面して築かれ、海水を堀に用い、その一部に舟入や船着場を設置または兼用している城、あるいはその形式のことです。
河川や湖沼に隣接する城と併せ、総じて水城(みずじろ)とも呼ばれています。
海城は臨海にあって海を水運(海運)と防御に用いた城郭の形式であり、一般に私たちかが呼んでいる山城や平城などの立地に基づく分類とは異なり、平城の海城、山城の海城も存在します。
海城は海運を押さえるため、舟の運用が不可欠であり、係留する施設として舟入や船着場が設けられたり、水堀の一部を舟入に兼用することが行われています。
海城を特徴付けるのは、海に面している城壁と海に直接開いている城門だそうです。
例えば、五角形の形をした愛媛県の宇和島城の場合は、西側の二辺は海を天然の防御線とし、東側の三辺に海水を引き込んだ水堀を設けており、船が出入りできる城門(黒門と黒門矢倉)を備えていたほか、城の周囲に舟小屋や隠し水軍基地も設けていたそうです。
広島県の福山城のように、引き潮のときに堀の水位が下がりすぎるのを防ぐために「築切(つっきり)」という土手が築かれた城もあります。

海城は瀬戸内海周辺に多く見られます。
もともと水軍の城が多い海路の要衝に位置し、村上水軍を傘下に取り込んだ小早川隆景(海城の名人と評される)が築いた広島県の三原城や福岡県の名島城は、水軍が拠点を設けていた場所に築城されています。
戦国時代末期以降に築城された近世城郭としての海城は海岸近くの低地に建てられるため、平城の一種として扱われることもありますが、島や半島の小山を城郭化した水軍拠点の城(愛媛県の来島城や広島県の因島水軍城など)は平山城に近い特徴を持っています。
城の立地によっては水に浮かんでいるように見えることから、三原城などは「浮城」の別名があります。
また、近世城郭の海城として最初で最大の城と言われる香川県の讃岐高松城は、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われたそうです。

海城について、城に詳しい柴田龍司さんは地形上の立地により下記の5つに分類しています。
①岬型・・・・海に突き出した丘陵先端部か、あるいは海岸に接する丘陵か台地上に立地する海城。
また本来は独立した小島であったが陸繋島となったところにも立地する城(豊後臼杵城など)も岬型に含めています。
②海浜型・・・・海岸に沿って形成された砂堤上に立地する海城。
③河口型・・・・中近世の湊は河口よりやや上流部に位置することが多いのですが、このような河口湊の町中あるいは町際の自然堤防上の微高地および丘陵・台地上に立地する海城。
④小島型・・・・小島全域を城域とする海城。
特に村上水軍関係の城郭は海城の代名詞といえるほど全国的にもっとも著名な海城ですが、例外を除くと芸予諸島一帯に数例存在するのみで、全国的にみれば極めて特種なタイプの海城だそうです。
⑤湾奥型・・・・湾や入江の奥部の丘陵・台地上に立地し、直接外洋に面しない海城。
立地の関係上から外洋に対しての眺望は岬型や海浜型に比べ不良です。

日本の主な海城は以下の通りです。
このうち、高松城(讃岐国)・今治城(伊予国)・中津城(豊前国)は、日本三大海城(あるいは三大水城)と呼ばれています。
また、この3城に桑名城(伊勢国)・三原城(備後国)を加えて、五大水城とも数えられています。

日本の主な海城は下記の通りです。
・亀ヶ崎城(出羽国)・・・・亀ヶ岡城は当初は東禅寺城と呼ばれ、通年「酒田城」とも呼ばれていました。
酒田が湊としての機能を果たしていたのは鎌倉時代の頃からともいわれ、当時からの城館の存在は明らかではく、築城時期も諸説あるため詳細は不明となっています。
・浦賀城(相模国)・・・・浦賀城は、神奈川県横須賀市東浦賀にあった、戦国時代末期の城です。
城跡は浦賀港の入り口である叶神社境内の明神山にあり、浦賀水道から房総半島が一望できます。
・三崎城(相模国)・・・・築城年代は定かではないのですが三浦氏によって築かれたと考えられています。
三浦氏が北条早雲によって新井城で滅亡すると、北条氏は水軍の拠点として三崎城を整備し、対岸の里見氏に備えたそうて、北条氏政の時代には伊豆韮山城主であった北条氏規が三崎城主も兼ねていたそうです。
・福島城(越後国)・・・・福島城は越後国頸城郡にあった近世の城で、福嶋城とも記されています。
新潟県上越市港町二丁目の上越市立古城小学校付近が本丸跡と考えられています。
北は日本海、東は当時の保倉川、南には堀、西は関川をはさんで中世以来の都市府中と向き合う場所に立地しています。
・鳥羽城(志摩国)・・・・鳥羽城は、志摩国答志郡鳥羽にあった城で、鳥羽藩の藩庁が置かれていました。
水軍の城で、大手門が海側へ突出して築かれたため、鳥羽の浮城、また、城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城、錦城とも呼ばれていました。
赤穂城(播磨国)・・・・赤穂城は、兵庫県赤穂市にある城で、江戸時代は赤穂藩主の居城です。
城郭は国の史跡 に、本丸庭園と二之丸庭園は名勝 に指定されています。
別名・加里屋城、大鷹城と呼ばれ、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選定されています。
・福山城(備後国)・・・・福山城は、広島県福山市丸之内1丁目にあった城で、城跡は国の史跡に指定されています。
久松城、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれ、日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定されました。
・三原城(備後国)・・・・三原城は、広島県三原市にあった城で、2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定されました。
永禄10年(1567年)、毛利元就の三男・小早川隆景によって、大島・小島をつないだ埋め立て地に建てはじめられたと伝わっています。
桜尾城(安芸国)・・・・桜尾城(さくらおじょう)は、安芸国佐西郡廿日市(現在の広島県廿日市市桜尾本町)にあった城です。
桜尾城は厳島神社で有名な宮島の対岸にあり、代々厳島神主家の本土側の拠点となっていた城です。
当初は大内氏に従属していましたが離反したため、大内義隆に攻め滅ぼされました。
その後、義隆が「大寧寺の変」で陶晴賢に謀殺されると、毛利元就によって占領されました。
上関城(周防国)・・・・上関城は、瀬戸内海の海上交通における西の要衝であった上関泊と上関海峡を見下ろす城山に築かれていていました。
萩城(長門国)・・・・萩城は、指月城とも呼ばれ、関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城です。
山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城なので、海城とするかどうかは見解が分かれるところです。
高松城(讃岐国)・・・・高松城は豊臣秀吉の四国制圧の後、生駒親正によって築かれた城です。
現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものです。
近世城郭の海城としては最初にして最大の城で、その規模は「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われているほどで、日本三大水城の筆頭です。
今治城(伊予国)・・・・今治城は、関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。
別名吹揚城(ふきあげじょう)とも言います。
来島城(伊予国)・・・・来島城(くるしまじょう)は、来島村上水軍の拠点で、最大潮速時速約20kmの来島海峡の喉元に位置する海賊の城です。
来島村上氏の本拠で周囲850mの島です。
能島城(伊予国)・・・・能島城は、「日本最大の海賊」と称された三島村上水軍のひとつである能島村上氏の拠点として、村上雅房によって築かれた水軍城です。
大島と鵜島との間に浮かぶ周囲約1kmほどの能島とその南にある鯛崎島で構成されています。
宇和島城(伊予国)・・・・宇和島城は、宇和島の中心部に位置する標高約80mの丘陵に築かれた平山城です。
近世城郭は築城家として名高い武将、藤堂高虎によって、慶長元(1596)年から慶長6(1601)年にかけて築かれました。
かつては大半が海に面し、堀も築かれていましたが、現在は埋め立てられています。
名島城(筑前国)・・・・名島城はもともとは立花山城の出城として築かれた城ですが、豊臣秀吉が九州平定を果たした後にこの地は小早川隆景に与えられ、隆景は名島城を大改修して居城としました。
中津城(豊前国)・・・・中津城は黒田官兵衛(孝高)によって築かれた城で、完成させたのは細川忠興といわれます。
今治城や高松城と並ぶ日本三大水城のひとつに数えられています。
臼杵城(豊後国)・・・・臼杵城は、大友宗麟が臼杵湾に浮かぶ丹生島に築いた海城です。
当時は断崖絶壁の島で、四方を海に囲まれた珍しい城だったそうですが、現在は埋め立てられて陸続きになっています。
江戸時代には稲葉貞通の居城となり、明治維新まで稲葉氏15代が藩主を務めました。
石田城(肥前国)・・・・石田城は、福江城とも言い、城壁の三方が海に面していたわが国ただ一つの海城として有名です。
平戸城(肥前国)・・・・平戸城は、別名亀岡城と呼ばれ、平戸瀬戸に突出した平山城です。
山鹿流築城法のもと、1704年松浦家30代棟のとき着工、1718年松浦家31代篤信の時完成しました。
玖島城(肥前国)・・・・玖島城(くしまじょう)は、大村湾に突き出した半島の先端に築城された平山城で、本丸、二の丸、三の丸から構成されています。
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ギリシャ・テッサリア地方にある「メテオラ修道院」

ギリシャ・テッサリア地方に、「メテオラ修道院」があります。

ギリシャ北西部のテッサリア地方は、ピンドス山脈の麓に位置し、高さ30mから600mの奇岩柱が60箇所以上もそびえています。
その姿だけでも十分に威容で異様ですが、その上には、「メテオラ修道院」がへばりつくように建てられています。
そして、数百年以上の時を共に過ごした奇岩柱と修道院は一体化して、一つのアートと化しているようにも見える不思議な光景を作り出しています。
この「メテオラ修道院」は、世界遺産の文化・自然複合遺産にも登録されています。

六千万年という想像を超える過去に、海底に堆積した砂岩が隆起した結果、緑の丘陵地帯の中に数十メートルから数百メートルもの絶壁に囲まれた巨石柱が立ち上がり、風や雨の浸食を受けて現在の姿になったと言われています。
恐竜は滅亡した後だったらしいのですが、その後の数千万年は空を飛ぶ鳥ばかりが暮らしてきたこの地に、ようやく人間が足を踏み入れるようになったのは9世紀頃だと伝えられています。
そして、俗世とのつながりを完全に断ち切って、祈りと瞑想のためだけに生きようとしたキリスト教徒の修道士が、奇岩のところどころにできた穴や裂け目に住み着いたのだそうです。
日本で仏教の修行僧が山や岩に住み着いて修行や修験を行うのと同じで、メテオラは、最初は個人的な修行の場にすぎなかったと伝えられています。

14世紀に入ると修道士の数が増え、共同体が作られていくことになりました。
その結果、いくつかの修道院が創立され、建築されていきました。
しかし、数百メートルの絶壁に囲まれた地にこれだけの修道院をどうやって建てたのか、正確な記録は残っておらず判明していない部分も多いとのことです。
異教徒による支配を受けた時代もあり、修道士の数が減ったこともあったそうです。
しかし、「メテオラ修道院」は、9世紀以降、絶えず祈り場として存在し続けています。
現在残っている6つの修道院は、すべて拝観することが可能だそうです。
館内のフレスコ画などの装飾も美しく見ごたえがありますが、窓から見降ろすギリシャの景観も絶景だそうです。


絶壁の上に建っているのが、「メテオラ修道院」です。


このような高さ30mから600mの奇岩柱が60箇所以上もあります。
この中で、「メテオラ修道院」はどの奇岩柱の上に建っているのかわかるでしょうか?


奇岩柱の間から覗く美しいギリシャの街並みです。

Meteora
聖ステファノス修道院は、現存している修道院の中でもその履歴が明らかになっているものの一つです。
12世紀から修道士の住処となっていましたが、14世紀に修道院が建てられました。
現在の建物は18世紀末に改築され、女性修道院となりました。

Nikolaos
聖ニコラオス修道院は、14世紀に聖ディオニシオスによって創建された修道院で、クレタ派の壁画が多く残されています。
「最後の審判」が有名です。

AgiaTriada
アギア・トリアダ修道院は、メテオラを代表する絶景ビューの修道院です。
15世紀創建で至聖三者に捧げられています。
四方は断崖絶壁そのものです。
修道院へのアプローチは1925年に階段が作られるまでは、縄ばしごか滑車つき巻き上げ機だったそうです。
建材等は、よく運べたと思います。

「雲母」は「きらら」と呼ぶの?

「雲母」について調べてみました。

少しでも岩石を知っている人なら「雲母」という鉱物名は知っていると思います。
実は、日本人の姓でも、この珍しい「雲母」という姓があるそうです。
静岡県に多く、特に小笠郡菊川町吉沢に集中してみられるそうです。
また、北海道にもみられるようです。
そして、「雲母」は、当然「うんも」と読むかと思いましたが、「きらら」と読むそうです。
姓の由来としては、雲母(うんも:鉱石)の産地であり、きらきらと光ることから名前がついたそうです。
そして、この「雲母」と、「きらら」≒「吉良」とは深い関係があるようです。

「吉良」と言えば、真っ先に吉良上野介を思い出しますが、もともと吉良家のルーツは清和源氏で、源義家(八幡太郎)の孫に当たる足利義康(よしやす)を始祖としているそうです。
義康は父から下野国足利庄(今の栃木県足利市)を贈与されて拠点としていました。
後の足利幕府を担う足利氏のルーツもここになるそうです。
三河の吉良氏はこの足利の流れから誕生しているそうです。

愛知県では、幡豆郡に「吉良町」(きらちょう)がありました。
2011年4月1日に西尾市に編入され、現在では表面から姿を消してしまいましたが、名鉄の駅名として「吉良吉田駅」はまだ健在だそうです。
そして、この地は江戸の高家として名高い吉良上野介義央(よしなか)公が治めていたところです。
足利義康の孫に当たる足利義氏(よしうじ)という人が、三河国吉良荘を与えられてこの地に赴任したのが発祥だそうです。
義氏はこれを機に「足利」姓を改め「吉良」姓に変えたそうです。
これは、言うまでもなく、この地が「吉良」という地名だったからということになります。

そして、「吉良」はどんな意味かというと、それが「雲母」に由来するそうです。
「雲母」はアルカリ性金属・鉄・アルミニウムなどを含む六角状の結晶でうすく剥がれる性質を持っています。
その光沢が美しいことから「きらら」とも呼ばれてきたそうです。
つまり「雲母」と書いて「きらら」とも読むことの由来です。
その「きらら」から「吉良」という地名が生まれたことを知って、義氏は姓を「吉良」に変えたそうです。
実際、この地に雲母が採れたという証拠もあります。
平安時代に出された『続日本紀』の元明天皇記に和銅6年(713)、大倭・三河の両国から「雲母」(きらら)を「輸納」させたと書かれています。
その雲母が採れたのは旧吉良町北部にある八ツ面山(やつおもてやま)別名「きらら山」だったとされています。

元禄14年(1701)に起こった赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の江戸城内での刃傷(にんじょう)事件の後、吉良上野介は翌年討ち入りによって殺害されてしまいます。
その後ドラマ化された「忠臣蔵」「赤穂浪士」などで吉良上野介は一方的に悪者にされてきた感があります。
これは、地元の人にとっては遺憾というしかないそうで、何故かというと、いかなる理由があろうとも殿中で刀を抜いたのは浅野長矩であったのは事実だからだそうです。
吉良上野介は地元に多大な貢献をしたことで知られています。
特に治水工事で知られ、洪水に悩まされていた「鎧ヶ淵」と呼ばれていた沼地に全長180mの堤を一夜にして築かせ、人々を驚かせたそうです。
その結果稲穂が豊かに実るようになったことから「黄金堤」(こがねづつみ)と呼ばれたそうです。

道後温泉本館の「振鷺閣」

道後温泉本館の「振鷺閣」を紹介します。

道後温泉本館の太鼓楼を「振鷺閣」(しんろかく)と呼んでいます。
その窓には明治時代に建てられた時から赤いギヤマンがはめ込まれています。
赤いギヤマンが、なぜ採用されたのかはわかりませんが、当時ハイカラの最先端だったギヤマンを使うことで温泉客を集めようとしたのでしょうか。
ここで、一日3回、刻太鼓が打ち鳴らされています。
道後温泉は、現在は松山市の管理ですが、「松山俚人談」によると、元禄から明治維新までは新居郡金子城主金子備後守の末裔である明王院(修験道場)金子さんが温泉の鍵を預っていたそうです。
明治初期には、明王院に代わって経営機関として原泉社が組織されました。
そして、1891年には道後湯之町の町営となり、ついで湯之町中央に木造3階建て入母屋造の道後温泉本館に「振鷺閣」も完成しました。
かつては源泉は1ヵ所しかなく、温泉客はみな本館の浴槽を利用したそうですが、1955年からボーリングを実施して源泉が増加し、周辺旅館に内湯として引湯されたそうです。
「振鷺閣」ですが、夜はライティングされて幻想的だそうです。


道後温泉本館に「振鷺閣」が見えます。
赤いギヤマンも目だっています。
頂部には、温泉を発見したという伝説の白鷺がいます。

「振鷺閣」の画像検索結果
神の湯本館は珍しい木造三層楼です。
太鼓楼の格天井に吊るされた太鼓は、時刻を告げる「刻太鼓」といわれ、朝・昼と夕方だけ鳴らされるそうです。

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道後温泉本館の正面です。
道後温泉本館は、伝統的な純和風の楼閣建築です。
トラス構造の様式小屋組みが用いられるなど、近代化の影響を受けた建物です。
神の湯本館が建てられたのは明治中期です。
その翌年に皇族入浴用棟である又新殿・霊の湯棟、さらに大正末期に南棟及び玄関棟が増設されました。
設計・施工は、代々松山藩の城大工棟梁の家柄であった坂本又八郎さんです。
重要文化財の木造3(一部2)階建て、塔屋付です。

江戸時代に建築された小采家住宅

江戸時代に建築された山間部民家で、国の重要文化財に指定されている小采家住宅を紹介します。

小采家住宅は、旧三好郡東祖谷山村の栗枝渡(くりしど)集落(標高650m)に建っていたものを旧祖谷山村が買い上げ、昭和58年(1983)8月に、現在の菅沼集落に移築・復元したものです。
国指定の重要文化財(建造物)には、昭和51年2月3日に指定されています。
かってあったとされる棟札や構法などから、江戸時代の天保年間(1830~1844年)の建築といわれています。
建物は、屋根が寄棟造(よせむねづくり)の茅葺きで、棟に「とうら」と呼ばれる茅を束ねた棟飾りがあります。
規模は、間口5.5間(10.8m)、奥行3間(5.9m)で、外観は土壁を風雨から守るためのヒシャギ竹と呼ばれる割竹で覆われ、正面中央に前便所が設けられています。
内部は、間口を左右に二分して、左手手前が土間のニワ、左手奥をカッテバ、右手を「一間取り」と呼ばれるオモテがあります。
構造には、祖谷地方では江戸時代中期以降にみられるオトシコミと呼ばれる独特の構法が用いられています。
古い民家が次々と姿を消す中で、小規模ながら祖谷地方の農家の特徴的な間取りや構造をもつ貴重な建造物として貴重なものだそうです。

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小規模ながら祖谷地方の特徴的な構造や間取りを持つ貴重な建物として、昭和51年に国の重要文化財に指定されたそうです。
昭和58年に、移築・復元したとのことで、まだまだ外観は新しく見えました。
でも、こんな茅葺き屋根は、40年以上前には田舎ではどこにでも見られたと思います。
我が家も、その頃は茅葺き屋根で、その上からトタンを敷き詰めて青色の屋根にしていました。
今は、茅葺き屋根を見ると情緒があると思えるのですが、昔はかっこ悪い屋根の代表だったと思います。

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農家の玄関を入ると、このように土間があって、そして石の段差があって、ここから家に上がるしくみでした。
懐かしさを感じます。

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このような囲炉裏は、我が家にはなかったです。

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