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能登半島の地震と珠洲市での原発計画

今年の元日の能登半島地震では、珠洲市付近を震源とするマグニチュード(M)7・6、最大震度7を観測し、同市内も震度6強の揺れに襲われました。
珠洲市ではかつて、北陸、中部、関西の三つの電力会社が共同で原子力発電所の建設を計画していました。
その中の候補地の一つだった同市高屋町は、今回の震源地域に隣接していました。
「珠洲原発」は地元住民の間で建設に対し賛否が分かれ、電力自由化による競争激化などもあり、2003年12月、3社は計画の凍結を表明した過去がありました。

この「珠洲原発」ですが、2014年5月に関西電力大飯原発3、4号機(福井県)の運転差し止め訴訟で、運転を認めない判決を出しました。
その当時の裁判長で、元福井地裁裁判長の樋口英明さん(71)が、1月13日に茨城県つくば市内で講演し、20年前に原発計画が凍結された石川県珠洲市の地震被災に触れ、「原発反対の市民運動のおかげでこうして講演会ができる。当時の人たちに感謝しなければいけない」と語ったとされています。
講演で樋口さんはまた、国による原発再稼働の動きに関し「脱原発運動の一番の敵は、私たちの心の中にある『原発は難しい問題』という先入観です」と語ったそうです。
原発は人が管理し続けなければならず、管理できなくなった場合、事故の被害は極めて甚大になります。
樋口さんはそれを踏まえ、「地震大国」の日本では「原発はやめるしかない」との理解に至ると述べていました。
その通りだと思います。
もし高屋町に原発が造られていたら福島と同じくらいかそれとももっと悲惨な状況になっていたかも知れません。
原発の避難計画に詳しい環境経済研究所の上岡直見代表は「今回の地震で珠洲原発予定地は地盤が数メートル隆起した。原発があったら、配管などが壊れて冷却が全くできず大事故となり、逃げられない住民は福島原発事故以上に被ばくした可能性は否定はできない」との見方を示しています。
孤立集落が相次いだ能登のように国内には半島に位置する原発も多く「四国の伊方原発が象徴的だが、住民避難の観点でもリスクが大きい」と強調しています。
「屋内退避など指針の前提も崩れた。真剣に避難を考えるほど、原発は動かせないという結論になる」
このような見解です。
伊方原発の近くに住んでいる私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか。

(1)経緯
珠洲市に建設予定だった珠洲原子力発電所の経緯を説明します。
※記載の役職名は当時のもので表記しています。
1970年(昭和45年)
珠洲市が過疎地域に指定されました。
1974年(昭和49年)
10月 - 原子力船「むつ」の漂泊に際し、新しい母港の候補地として、珠洲市にある飯田港が報じられました。
このとき、中西陽一石川県知事、黒瀬七郎珠洲市長ともに誘致などの関与を否定しています。
1975年(昭和50年)
夏 - 北陸電力が珠洲市に対し、立地の意向を打診しました。
10月30日 - 珠洲市議会(以下、市議会)が、全員協議会において、原子力施設設置適地可否調査の要望を決議しました(原子力船の基地にすることも含む)
これに対し、輪島市漁業協同組合は原発反対の声明を出すことを決めました。
11月6日 - 黒瀬市長と田畑市議会議長は、市議会全員協議会の申し合わせに基づき、原発建設や原子力船関連施設などに関する調査を実施するよう政府に働きかけてほしい旨を、中西石川県知事に文書で要望しました。
1976年(昭和51年)
1月 - 中部電力が、珠洲市で100万kWの原発を共同開発する意向を発表しました。
1月13日 - 関西電力・芦原義重会長が、珠洲市に1000万kWの大規模原発を北陸・中部両電力と共同で建設することを検討していると発表しました。
3月 - 通商産業省資源エネルギー庁が、珠洲市高屋町と三崎町寺家の両地区で、原発の地質調査(立地予備調査)を開始しました。
これを受け、電力3社は同月、共同調査のためのプロジェクトチームを編成し、原子力立地に向けた調査活動を開始しました。
5月 - 市が、原子力施設視察の斡旋を始めました。
1977年(昭和52年)
3月9日 - 資源エネルギー庁は、黒瀬市長に対し、同市2地点で行った立地予備調査について、「地盤が相当固く、原発立地には別段の支障がない」との判断を伝えました。
1978年(昭和53年)
7月30日 - 珠洲市長選挙で、原発推進派で現職の黒瀬七郎が、原発批判派で保守系無所属の新人を破って再選されました。
1979年(昭和54年)
3月 - スリーマイル島原子力発電所で炉心融解事故発生、周辺に放射能が漏れ出しました。
1980年(昭和55年)
4月 - 珠洲原発の反対運動「珠洲原子力発電所建設反対同盟」と能登原発(のち、志賀原発に改称)の反対運動などが共催で「原発を許さない県民の集い」を開催しました。
9月16日 - 珠洲での、北陸電力と電源開発による200万kW級の石炭火力発電所の建設計画が公表されました。
12月11日 - 北陸電力が、珠洲原発について、電力3社で新会社を設立し、推進する旨を表明しました。
1981年(昭和56年)
3月 - 敦賀原発で放射能漏れ事故が起こり、事故隠しも判明した(事故が起きた1号機は、志賀原発1号機と同型の沸騰水型軽水炉(BWR)でした)。
この事故を受け、志賀町の野崎外雄町長は、国の対応策が明確になるまで原発の推進活動を控える旨を表明しました。
同年6月には中西陽一県知事も原発の推進は当分凍結する旨を表明しました。
3月25日 - 黒瀬市長が辞職しました。
多額の個人負債を抱え、職務に専念できていないとして市議会から退陣を求められていました。
4月29日 - 市長選挙で、推進派の谷又三郎が当選しました。
1982年(昭和57年)
5月28日 - 北陸電力が珠洲市に、珠洲石炭火力発電所の立地可能性調査を正式に申し入れました。
同年9月6日、石炭火力の現地調査が始まりました。
1983年(昭和58年)
6月9日 - 北陸電力が、石炭火力立地見送りの報告書を市に提出しました。
12月 - 市議会において、谷市長が原発推進を表明しました。
1984年(昭和59年)
3月5日 - 電力3社が珠洲市に原発立地調査研究のための現地入りを申し入れました。
市は市議会全員協議会に諮った上で了承しました。
なお、この申し入れの前に、反対派は市と市議会に対し、環境調査を行わないよう求める申入書を提出していました。
4月1日 - 電力3社が現地事務所「珠洲電源開発協議会」を開設しました。
1985年(昭和60年)
4月14日 - 珠洲市長選挙で、新人の林幹人が無投票で初当選しました。
1986年(昭和61年)
4月28日 - ソ連でチェルノブイリ原子力発電所事故発生しました。
6月 - 市議会が原発誘致を決議しました。
9月10日 - 中部電力が寺家地区での原発2基の立地申し入れを行いました。
1987年(昭和62年)
4月26日 - 珠洲市議会議員選挙。定数18名の中、反原発の国定正重が初当選して1議席を奪還しました。
1988年(昭和63年)
12月 - 北陸・関西両電力が珠洲市に、高屋地区での原発2基の立地可能性調査を申し入れました。
1989年(昭和64年/平成元年)
4月 - 市長選挙が行われ、原発推進派の現職が再選されました。
この選挙では、反対派の新人2候補の得票数が現職を440票上回りました。
5月 - 関西電力と北陸電力が、高屋地点で原発の立地可能性調査(事前調査)に着手しました。
これに対し、同月22日、建設反対派住民が珠洲市役所内で座り込みを開始、その後40日間続きました。
6月 - 関西電力は、反対派住民の座り込みを受け、立地可能性調査を一時見合わせることを表明しました。
1991年(平成3年)
4月 - 県議選、市議選で、反原発を掲げる候補が当選しました。
1993年(平成5年)
2月7日 - 能登半島沖地震発生しました。
4月18日 - 珠洲市長選挙で推進派の林幹人が当選しました。
6月29日 - 国の総合エネルギー対策推進閣僚会議が、珠洲原発1号機・2号機を「要対策重要電源」に指定しました。
9月 - 市議会が立地促進決議を可決しました。
1994年(平成6年)
2月 - 原発推進派だった中西陽一・石川県知事が死去しました。
知事選で当選した谷本正憲は、珠洲原発について、住民の合意が得られていないことを挙げ、慎重な姿勢をとりました。
1995年(平成7年)
12月8日 - もんじゅでナトリウム漏れ事故発生しました。
1996年(平成8年)
5月31日 - 1993年4月に実施された珠洲市市長選挙の無効訴訟で、最高裁が石川県選管の上告を棄却し、選挙の無効および推進派である林幹人市長の失職が確定しました。
7月14日 - やり直しの市長選挙で、推進派の貝蔵治が当選しました。
翌日15日、市長職務代理者だった助役が、公職選挙法違反の疑いにより逮捕されました。
8月4日 - 新潟県巻町で原発の賛否を問う住民投票が行われ、反対が多数を占めました。
結果を受けて、貝蔵市長が記者会見し、「原発だけを問うというのは疑問がある」「現在、住民投票については考えていない」などと述べました。
1998年(平成10年)
3月13日 - 珠洲市議会において、請願「志賀原発事故原因の徹底糾明を」が不採択となりました。
この請願は、同年1月10日、志賀原発で起きたトラブルに対して「飯田住民の会」から出されていたもので、同市議会の総務常任委員会において賛成少数のため「不採択とすべきもの」とされていました。
1999年(平成11年)
土地を売却した地主が脱税で起訴されたことをきっかけに、関西電力が内々に土地を買い集めていたことが判明しました。
9月30日 - 東海村JCO臨界事故発生しました。
10月11日 - 原発の用地買収について、清水建設など大手ゼネコンが関与していたことを朝日新聞が報じました。
10月27日 - 参議院決算委員会で、共産党・緒方靖夫議員が、関西電力の珠洲市における用地取得について質問を行いました。
2000年(平成12年)
5月19日 - 朝日新聞は、珠洲原発の用地買収に関わった企業5社が、森喜朗首相の資金管理団体「春風会」と自民党石川県第二選挙区支部(森が支部長を務める)に、1995年から1998年まで、計784万8千円を献金していたことを報じました。
2003年(平成15年)
4月 - 石川県議会議員選挙で、原発問題が最大の争点となった珠洲市・珠洲郡選挙区(定数1)において、推進派の上田幸雄が、反対派の北野進を破り、当選しました。
当選した上田県議は、「原発推進を知事に申し入れる」と述べました。
5月 - 推進派の貝蔵市長と上田幸雄県議が、谷本知事などに原発立地可能性調査の再開を求めました。
6月12日 - 推進派の動きに対し、反原発派の3団体が、石川県に、県が原発立地推進に協力しないよう求める要望書を提出しました。
12月5日 - 電力3社の社長が珠洲市役所を訪れ、珠洲原発の計画凍結を申し入れました。
これに対し、貝蔵市長は、市議会において「電源立地推進にかけた多くの市民の皆様方の万感の思いと、これまで築きあげた信頼関係を踏みにじる許し難い結果であり、強く憤りを覚える」と述べました。
2007年(平成19年)
3月25日 - 能登半島地震が発生しました。
2022年(令和4年)
6月19日 - 能登地方を震源とする地震が発生しました(珠洲市で震度6弱を観測)。
地震による津波はありませんでした。
2023年(令和5年)
5月5日 - 能登半島沖を震源とする地震が発生しました(珠洲市で震度6強を観測)。
同市では、建物が倒壊したり、崖崩れなどの被害が出ました。
2024年(令和6年)
1月1日 - 能登半島地震が発生しました。

(2)概要
北陸電力・中部電力・関西電力の電力会社3社(以下、電力3社と表記)による共同開発が予定されていました。
当初、電力3社で新会社をつくり、出力を1000万kW級にする構想もありました。
その後、関西電力が高屋地区、中部電力が寺家地区で、それぞれ100万kW級の原発2基を建設する計画となりました。
珠洲市や経済界は、過疎脱却、地域振興を目的に原発誘致を推進していました。
年間1億8千万円余りの原発促進事業費が、国から珠洲市に投入され、そのほとんどが原発の視察旅行などに使われたそうです。1975年11月から1980年3月までの間、敦賀原発や美浜原発への見学には約5千名の市民が参加しました。
1979年3月に起きたアメリカ・スリーマイル島原子力発電所事故を契機に、見学会は中断されたそうです。

(3)建設計画の浮上
珠洲市での原子力発電所建設計画が浮上したのは、1975年8月に発覚した、能登半島先端部における北陸電力の原子力発電所共同開発計画が端緒となっています。
同年、珠洲市議会が、原子力施設設置適地可否調査の要望を決議し、やがて石川県知事の中西陽一さんに手渡しました。
中西さんは能登半島への原子力発電誘致を加賀・能登の格差是正や産業振興、過疎化抑制の手段とし、原発推進の姿勢を示していました。
その中で、珠洲より先に志賀原発の建設が決定しました。
この動きから、電力3社は珠洲市内での原子力発電所建設構想を打ち出しました。
要望書提出後の国による立地予備調査を経て、珠洲市側は一度は静観するものの、1983年12月16日に珠洲市長の谷又三郎さんが市議会で原発立地推進を表明しました。
これより先、1982年5月から1983年5月まで、一時原発立地が棚上げとなったため「石炭火力立地可能性調査」を行ったのですが、1983年6月、石炭火力の立地は経済性から困難であることを市に報告しています。
翌年には電力3社による珠洲市への立地可能性調査の申し入れと「珠洲電源開発協議会」の設立が行われ、原発立地への動きが進められました。

(4)反対運動
原発反対派は、「新しい珠洲を考える会」、珠洲地区労、社会党珠洲総支部が「珠洲原発反対連絡会議」を結成し、能登原発(志賀原発)反対各種団体連絡会議と共闘しました。
また、1981年の市長選挙に反原発の候補者を擁立しました。
高屋町では、原発設置反対闘争本部が設立され、公明・共産・社会の各党は、設置反対を申し入れました。
1989年5月12日には関西電力が高屋地区での立地可能性調査に着手しますが、建設反対派による阻止行動や珠洲市役所での座り込みにより、同年6月16日に調査を一時見合わせることを決定しました。
建設反対派は調査見合わせ決定の翌日に「珠洲原発反対ネットワーク」を設立し、その後珠洲市議会や石川県議会へ建設反対派議員を送り込むことになりました。
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広島県呉市の三ツ子島について

広島県呉市、音戸の沖に「三ツ子島」があります。

「三ツ子島」(みつごじま:三子島とも書く)は、3つの島が連なるように並んでいるのでそう呼ばれているそうですが、この島の特徴は、島の半分くらいが真っ白になっていることです。
実は、この真っ白いものは塩だそうです。
この塩はメキシコから船で、三週間かけて運ばれてくるそうです。
私も、呉の灰が峰から三ツ子島を見たのですが、これを見ると島のおよそ3分の1が塩をかぶっています。
文献を読むと、この島では最大100万トンの塩を備蓄できるそうです。
この塩は、食用また塩素系工業原料として使用され、日本の工業塩の75%を担っているそうです。
地元の人にとっては当たり前の風景でしょうが、私はこの山を見てびっくりしました。

この島は、戦時中は海軍の消毒施設として使用されていたそうです。
今もその施設の基礎や遺影の仏像があるそうです。
この島は、1956年までは人が住んでいて、 65世帯の開拓民が離島してからは無人島になったそうです。
今では、その時の食用として飼われていたウサギが野生化して生息しているとか言われていますが塩だけでは生きてはいけません。
テレビでも、「三ツ子島」のことが放送されていたそうです。
今から8年前の2010年に国有の方の無人島が売却されるということでした。
国有地の無人島が売却される例は過去になかったそうです。
「どこかの企業の保養地か個人のリゾート地になるんかねえ?」など話していましたが、最終的には塩山の所有者である三ツ子島埠頭株式会社さんが1億1千万円で落札したそうです。
隣の島で活動をされていて、操業に悪影響がでることを回避したかったのが理由だそうです。
ここから全国へ出荷されるらしく、山の高さは日々変わります。
運がよければ荷下ろしの作業が見れるそうです。

S__10428514.jpg
呉の灰が峰から見た「三ツ子島」です。
真っ白い島を含め3つの島が「三ツ子島」です。
左側の大きい島が「塩の島」で右側の小さい島が1億1千万円で買った島です。

26183.jpg
呉から江田島に向かう道路から見た「三ツ子島」です。
今の時期だと、「何でここだけ雪が?」と思ってしまいます。


アイスランドの噴火について

以前にもブログで紹介していましたが、世界有数の火山国として知られる北欧アイスランドで12月18日、噴火が発生しました。

噴火したのは南西部にあるグリンダビークという町の近くで、この一帯では、およそ2か月にわたって地震が相次ぎ、政府が立ち入りを規制するなどして警戒が高まっていました。
アイスランドの気象当局の話だと、18日夜、アイスランド南西部の町グリンダビークの北東、およそ4キロの内陸部で噴火が発生したそうです。
現地からの映像では、地面の割れ目からオレンジ色の溶岩が勢いよく噴き上がっている様子が確認できました。
一帯では、先のブログでも紹介しているように、10月下旬以降、地震が相次ぎ、道路に亀裂が走ったり地面が陥没したりしたことから、当局は噴火のおそれが高まっているとして11月10日に非常事態を宣言して立ち入りを規制し、グリンダビークの町民およそ4000人は避難しています。

近くにある観光名所の温泉施設「ブルーラグーン」も休業を余儀なくされていましたが、今月17日に営業を再開したばかりでした。
それが、今回の噴火を受け、再び営業を見合わせることを発表しました。
アイスランドでは、2010年に起きた火山の大規模な噴火によって火山灰がヨーロッパ上空の広い範囲に広がり、各地の空港で合わせて10万便以上が欠航しました。
今回の噴火についてアイスランド当局は「交通障害の可能性を完全に排除することはできないものの、科学者たちはそのシナリオは起きにくいと考えている」としています。
噴火によって4キロメートルにわたる亀裂が生じ溶岩が噴出したのですが、気象当局によると亀裂の最南端部分は同地域の唯一の町であるグリンダビークから3km離れています。
地質学者のビョルン・オッドソンさんは公共放送RUVに「溶岩はグリンダビークには向かわない」と語っています。
したがって建物などへの被害は避けられるとの期待が高まっています。
アイスランド政府は声明で「噴火は生命を脅かすものではない」と指摘し「アイスランドを発着する航空便に支障はなく、国際便の航路は開かれている」と説明しました。
ただし、町までわずか3kmしか離れていない場所で溶岩が激しく噴き上がる吹き上がる様子を見て、あらためて自然の脅威を感じ.るそうです。
防災当局は、今のところ町への差し迫った危険はないとしているが、風向きによっては、首都レイキャビクなどに火山ガスの影響が及ぶ可能性も指摘しています。
気象庁よると、噴火は次第に弱まってきているということですが、再び激しくなるおそれもあるとして、住民に警戒を呼びかけているそうです。

アイスランドは、北米プレートとユーラシアプレート、2つのプレートの堺に位置する島国で、日本の約4分の1の広さの国土に32の活火山が存在するなど、日本との共通点も多い国です。
今後の噴火の影響について、北海道大学の青山教授は、「火口の位置と活動の継続期間がポイント。街に近い場所に新たな火口ができれば、深刻な被害が及ぶ可能性がある。海岸に近い場所に火口ができれば、溶岩が海水と接触し、爆発的な噴火となる場合もある」と指摘しています。
火山国の日本も他人ごとではないですね。

アイスランドの火山活動について

アイスランドで火山活動が活発化しています。
レイキャネス半島では2021年、800年ぶりに噴火が始まったのですが、今月に入って地面に亀裂が入るなど、被害が拡大しています。
半島の南端にある町のグリンダヴィークでは1メートル以上陥没した場所もあり、住民全員が避難しました。
現在、アイスランド最大のブルドーザーがこの小さな町に向かい、溶岩が主要な建物を破壊するのを食い止めるため防護壁を築いています。
一方、科学者によれば、この地域は数十年にわたり火山活動が不安定になる可能性があるとのことです。
マグマは、数百年前の亀裂の下を流れていると考えられています。
アイスランドで最も有名な観光名所のひとつであるブルーラグーンも、今月末まで閉鎖される予定です。

11/14(火) のニュースでは、アイスランドが火山が噴火した場合に備える中、南部で13日に約900回もの地震が発生したと発表しました。
同地域ではここ数週間では数万回の揺れが観測されているそうです。
そして、地下のマグマの圧力で道路に亀裂が入り、建物が傾き始めています。
溶岩が地表に向かう中、科学者は懸念を強めています。
アイスランド気象当局のマシュー・ジェームス・ロバーツさんは、「今回の貫入は長さが15キロもある。この貫入には、毎秒数千立方メートルの溶岩マグマが流れ込んでいた。現在、この貫入は地表のすぐ下に位置している。15キロの距離にわたって、溶融したマグマが広がり、実際に海岸沿いの町グリンダビークの中と地下を通っている」と言っています。
グリンダヴィークの町の住民3800人全員が、週末に自宅から避難しました。
ただし、大半は友人や家族の家に身を寄せており、避難所にいるのはわずか50─70人だそうです。
地元住民のハンス・ベラさんは、地震には慣れていそうですが、「安定することはなく、常に揺れていたので、眠ることも何もできなかった。だから『これは普通ではない』と感じた」「救助隊の大きな車があり、20人警察官がいて、ライトが点滅している。とにかく非現実的で、まるで戦場か何かのようだ」と話していました。
当局は、マグマが地表を突き破り、町や地熱発電所に被害が及ぶ可能性を懸念しています。
前出のロバーツさんは「リスクの観点からの大きな懸念は、マグマが地表に出てきて割れ目噴火を起こす可能性があるということだ。ハワイのような溶岩を生成する火山噴火で、これは長い亀裂が生じる可能性がある」と語っていました。
その上で「噴火が起きるのか、起きた場合、どのような被害が出るのか、というとてつもない不確実性を、私たちは今抱えている」と話していました。
レイキャネス半島は火山地帯で地震多発地域です。
7月にも火山活動が観測されていました。
2021年3月には、地上の長い亀裂から溶岩が大きく噴き出した記録もあります。

京都大学防災研究所火山活動研究センター長の教授である井口正人さんによると、アイスランドはプレートの境界に位置していて、日本周辺と比べてマグマの噴出量が多い傾向があるそうです。
今回は街のすぐ近くでマグマが上昇して地殻に入り込む「貫入」が発生しているとのことです。
井口さんは、「溶岩流が噴出して街に到達すれば、街全体が壊滅するかもしれない。人的被害が出る可能性もある」と指摘しています。
その上で、井口さんは今回のマグマの貫入が海域に及んでいる点に注目しています。
マグマと海水が接触することで爆発的な噴火になり、大量の火山灰が出る可能性があるそうです。
空路に大きな影響を与えた2010年4月の噴火同様、「ヨーロッパの空路がまひ状態に陥るかもしれない」と警鐘を鳴らしています。

アイスランドは、日本と同じくプレートがあります。
日本列島周辺には、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北米プレートの4枚のプレートが相接しており、それらの境界が日本海溝、相模トラフ、南海トラフとなっています。
太平洋プレート及びフィリピン海プレートは、毎年数cmの速さで西に動き日本列島の下に潜りこんでいます。
これによりユーラシアプレートなどの大陸プレートの端が引きずり込まれ歪みのエネルギーがだんだん蓄積されていっています。
プレートの動きが地震につながると言われており、それぞれが押し合ったり重なり合ったりして、これが日本で多くの地震を引き起こす原因になっています。

アイスランドはユーラシアプレートと北アメリカプレートの2枚のプレートがあり、島内に広範囲にわたる 火山活動と地熱活動が盛んな地域がありますが、ユーラシアプレートと北アメリカプレート のプレート境界を示す大西洋中央海嶺に関係した リフトがアイスランドを南西から北東にかけて横切っています。
ユーラシアプレートは、東シベリア、インド亜大陸、アラビア半島の3地域を除くユーラシア大陸の地殻及びマントル上方のリソスフェアを形成する大陸プレートです。
北アメリカプレートは、アイスランド西部、グリーンランド、北アメリカ大陸および東シベリアから東日本にかけての地殻及びマントル上方のリソスフェアを形成するプレートです。
アイスランドは大西洋中央海嶺の上に位置しているそうです。
この海嶺は北アメリカプレートとユーラシアプレートが分離する海洋底の裂け目ですが、アイスランドではそれが海面の上で見られる場所です。
毎年2~3cmの速度で離れていき、それぞれのプレートは日本の海底あたりで潜り込んでいるそうです。
そのため、プレートの境目があるところに火山が多いそうです。
ミーヴァトン湖に近いところでも“ギャウ”と言われる裂け目が見られます。
固い岩盤のように見えますが意外と粘土質の柔らかい地質だそうです。
アイスランドの南西部にあるシンクヴェトリル国立公園では、もっと規模の大きな地上の裂け目を歩いたり、湖底の裂け目をダイビングで楽しむことができるそうです。

いずれにしても、日本との関連が多い地震国です。
未曽有の災害が起きないように祈るばかりです。

イスラエルとハマスの過去について

イスラエルとパレスチナ人の中の「ハマス」との戦争が始まりました。
唐突に「ハマス」がイスラエルへ攻撃したようにも見えますが、この攻撃はロシアとウクライナとの戦争と違って(ロシアとウクライナとの戦争はロシアが悪いのは明らかです)簡単なものではありません。
この問題を考えるにあたり、何故イスラエルはこの土地で建国されたのかを振り返ることだと思います。
そして、それを振り返るには、2000年前に歴史を遡る必要があります。

パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありました。
しかし、この国は2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされてしまいます。
この時には、ユダヤ人は、パレスチナを追い出されて世界に散り散りになってしまいます。
これを「ディアスポラ」と言います。
その後パレスチナの土地の支配者は、歴史に応じて変わっていきますが、アラブ人、今で言うパレスチナ人が住み続けることになりました。
散り散りになってしまったユダヤ人はヨーロッパや中東、アフリカで暮らすことになります。
ただ、特にヨーロッパでは差別や迫害に苦しむことになりました。
ユダヤ教の国で新しい教えを広めたのがイエス・キリストです。
彼はユダヤ教の聖職者たちと対立し、十字架にかけられてしまいました。
このため、のちにヨーロッパでキリスト教が広がると、ユダヤ人はキリストを処刑した人たちとみなされ、差別や迫害の対象になってしまいます。
ユダヤ人はそれぞれの土地で、普通の人がなかなか就かないような仕事に就かざるを得ませんでした。
その代表例が金融業です。
やがて金融業の需要が増すにつれ、その土地土地で富を握るようになります。
また、昔から自分たちの宗教を守るのに熱心で、子どもの教育にも力を入れてきました。
識字率が高く、知識階級の中でも影響力を持つようになります。
いろいろなことが重なって、疫病などの災難が起きるとユダヤ人を迫害する、という歴史が繰り返されてきました。
迫害が続く中、19世紀にユダヤ人たちの中で、かつて王国があったパレスチナの地に戻ろう、国をつくろうという運動が起こります。これを「シオニズム運動」と言います。
それが現実化してくるのが第1次世界大戦の時です。
イギリスが「ユダヤ人の国家建設を支持します」と約束したそうです。
ユダヤ系の財閥、ロスチャイルドから資金援助を引き出そうという狙いだったと言われています。
一方イギリスは、当時パレスチナを含むアラブ地域を支配していたオスマン帝国を切り崩すため、アラブ人にも「オスマン帝国と戦えば、独立国家をつくる」と約束しています。
さらに盟友のフランスとは、この地域を山分けする密約も結んでいたそうです。
歴史上、これが悪名高い「三枚舌外交」と呼ばれるものです。

結局、オスマン帝国の領土は、イギリスとフランスが山分けすることになりました。
ユダヤ人は「だまされた」と思いつつ、パレスチナの地に移り住む動きを強めていきます。
そして、最後の決め手となったのが、ナチス・ドイツによるホロコーストです。
ホロコーストとは、第二次世界大戦中の国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)支配下のドイツ国(ナチス・ドイツ)やその占領地においてユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺のことです。
これにより600万人のユダヤ人が殺害されました。
もう二度とユダヤ人が迫害されることはあってはならないと、悲願の国をつくる思いを強めていったのです。
ナチスの犠牲者になったユダヤ人への同情もあり、1947年には「パレスチナの地に国をつくらせよう」という国連決議が採択されました。
そして翌年には、ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言します。
パレスチナ側からすると広大な土地を取られてしまうため、「勝手に国をつくられるのはおかしい」と反発しました。
建国の翌日(1948年5月15日)には周辺のアラブ諸国がイスラエルに攻め込みました。
これが第1次中東戦争です。
イスラエルは最初は苦戦しましたが、国連の分割決議で認められた土地は死守しました。
その状態で国を少しずつ造っていきますが、パレスチナは相変わらず国にならない状態でした。
周辺のアラブ諸国は、イスラエルに対する憎しみを募らせながら緊張状態が続きました。
中でも決定的だったのが、1967年の第3次中東戦争です。
イスラエルは、戦争前まで認められていた休戦ラインを越えて、国際法上、認められていないところまで占領したのです。
この時イスラエルは事実上「パレスチナ」と呼ばれていた土地のすべてを、統治下に置くことになったのです。
入植地の建設も、これ以降加速します。
占領地での入植活動は、国際法に違反する行為です。
こうしたことから、それまで国際的には「被害者」とみられていたイスラエルは占領者となり、ある意味「加害者」としてみられるようになります。
結局25年間で4回も戦争が繰り返されるのですが、毎度イスラエルが軍事的に圧倒しました。

戦争に負け続けたアラブ側、パレスチナ側は、このままでは耐えられないと「インティファーダ」と呼ばれる住民の抵抗運動が広がっていきます。
住民がイスラエル軍に石を投げて抵抗するのです。
一方、パレスチナの外では、アラファト議長率いるPLO=パレスチナ解放機構という組織が各地でイスラエルに対する武装闘争を展開します。
そしてもう1つ、大きな動きがありました。
1991年にイラクで起きた湾岸戦争で、イラクがクウェートに侵攻したことがきっかけで起きた戦争です。
当時のイラクのサダム・フセイン大統領は旗色が悪くなる中で「アラブの正義のためにパレスチナを解放する」と言い出して、はるか遠くのイスラエルにミサイルを数十発も発射しました。
アラブ世界の同情を集めようとしたのです。
これをきっかけに国際社会から「パレスチナ問題を解決しないと何が起きるかわからない」と事態打開を求める声が高まります。
そして、その後の歴史的な合意=オスロ合意へと向かっていくことになります。
1993年、アメリカとノルウェーの仲介で、イスラエル・パレスチナ双方のトップにより交わされたのが、パレスチナ暫定自治合意、いわゆるオスロ合意です。
パレスチナに暫定自治区を設置して、いずれはイスラエル、パレスチナの双方が共存することを目指しましょうという内容です。
和平交渉の期限とされていた2000年までは楽観論が広がっていました。
双方の人たちの多くが、共存できる夢のような時代がくるのではないかと思っていたのです。

ところが、2000年9月、当時右派の政治家でのちに首相になるシャロン氏が、エルサレムのイスラム教の聖地に足を踏み入れてしまいます。
エルサレムの旧市街には「嘆きの壁」というユダヤ教の聖地がありますが、その上側に「岩のドーム」というイスラム教の聖地があります。
同じ構造物の壁と天井が、ユダヤ教の聖地とイスラム教の聖地としてくっついているのです。
シャロン氏は大勢の警察官に守られながら「嘆きの壁」の上側にある階段を上り「岩のドーム」を一回りして、「私は平和の使者だ」と言って帰ってきました。
礼拝中だったイスラム教徒は、それを見て暴徒化しました。
そして今度はイスラエルの警察がそれを力ずくで鎮圧し、死傷者が出たのです。
これをきっかけに、各地で激しい衝突が始まってしまいます。
約7年もの歳月をかけて築き上げてきた和平への希望が、わずか数日で崩れていきました。
これが導火線になって、暴力の応酬が始まりました。
イスラエルの街中では、バスが吹き飛ばされるような爆弾テロが起きるようになりました。
これに対してイスラエルは、パレスチナの過激派の拠点を空爆します。
衝突が長期化していく中、イスラエルの世論が右傾化し、選挙であのシャロン氏が首相になります。
シャロン氏は、ヨルダン川西岸の境界に食い込むように分離壁をつくりました。
テロリストがイスラエル側に入ってこないようにするためのものです。
高さは、最も高いところで8メートル、全長は700キロ以上にもなりました。
この壁ができて、テロが減ったことをきっかけに、危害がないなら交渉はもういいじゃないか、という考え方がイスラエル側で広がっていきます。
持続的な国を作るためには和平しか手段がない、という考え方が次第に失われていったのです。
パレスチナ側では、オスロ合意後、暫定自治政府のトップとしてパレスチナをまとめていたアラファト議長が2004年に亡くなります。
後を継いだのはアラファト議長と同じ、穏健派の政治勢力「ファタハ」に属していたアッバス議長でした。
和平派の指導者として期待されたのですが、過激派を抑えるだけの力がなかったというのが大半の評価です。
それで、イスラム組織の「ハマス」に2006年の議会選挙で負けてしまいます。
「ハマス」とは、イスラム教の教えを厳格に守ろうという人たちで、ガザ地区を中心にパレスチナの解放を訴えています。
「過激派」と呼ぶ人も多いのですが、軍事部門でイスラエルと武装闘争を続ける一方、慈善活動や教育支援で貧しい人の生活を支えたりもしています。
その「ハマス」は選挙に勝ったあと、2007年からガザ地区を独自に支配するようになってしまいます。

一方、ヨルダン川西岸はイスラエルと和平交渉を続けるという立場をとっている「ファタハ」が統治を続けています。
パレスチナが一体ではなくなってしまったのです。このため、パレスチナ内での和平への足並みがそろわなくなってしまいます。
その結果、和平交渉そのものが、ほとんど行われなくなりました。
イスラエル側も、パレスチナ側にやる気がないのなら別に急がない、という態度でした。
「ファタハ」がやる気でも、「ハマス」がテロを繰り返すのであれば、そんな連中とは話ができないというような感じです。
結局、今のまま現状維持でいこうという力のほうが強く働いてきたのです。
その後は今に至るまで、事あるごとに衝突が起きてきました。
「ハマス」がガザ地区からイスラエルに向けてロケット弾を撃ち、イスラエルが報復として空爆することの繰り返しです。

20世紀に入って、アメリカには、ヨーロッパで迫害されていた、たくさんのユダヤ人が逃れ移り住んできました。
アメリカの全人口3億人余りのうちユダヤ系は約500万人ほどですが、政財界・学会、様々なところに影響力を持つ優秀な人物を輩出しています。
さらにアメリカには、政界にイスラエルの利益をなるべく反映させるように働きかける大きなユダヤ系のロビー団体があります。
大統領選挙では民主党も共和党も選挙資金を目当てに、ユダヤ系ロビーに気をつかうところがあります。
このため、民主党・共和党ともに影響を受けるのです。

こうした背景もあって、アメリカは中東戦争以来、イスラエルに巨額の軍事援助を続けています。
イスラエルの立場や治安を守り、国家として存続できるようにする、というのが民主党政権・共和党政権を問わず、共通しているのです。

歴代政権の中でイスラエル寄りの姿勢が突出していたのが、トランプ政権です。
一番極端だったのはアメリカ大使館をエルサレムに移設したことです。
イスラエルはエルサレムが首都だと主張していますが、国際法上、占領は認められていません。
ところが、トランプ政権は大使館をエルサレムに移設しました。
一方でパレスチナへの支援を打ち切るなど、露骨にイスラエル寄りの政策をとりました。
このため、ただでさえ止まっていた和平交渉は、ますます進まなくなってしまいました。

バイデン大統領は、パレスチナ問題に取り組む姿勢を見せ、中東和平に取り組むだろうという多くの人の期待のもとに就任しました。
ただ、現実問題では、アメリカの外交政策はなんといっても対中国が最優先です。
中東では、トランプ政権がご破算にしたイランとの核合意をいま一度結び直すという課題の方が優先順位としては上なので、パレスチナ問題は後回しになっているのが実情です。

一方で、パレスチナを支援してきたアラブ諸国にも変化が生まれます。
エジプトとヨルダン以外のアラブ諸国はみな「パレスチナ問題が解決するまではイスラエルは認められない」という立場でした。
ところが、トランプ政権時代に和平交渉再開が絶望的になった中、UAE=アラブ首長国連邦やバーレーンが立て続けにイスラエルと国交を結んだのです。

今では、アラブの盟主を名乗るサウジアラビアも、イスラエルとの国交正常化を模索していると言われています。
パレスチナ問題が全く動かない中、イスラエルとしてはパレスチナを飛び越えてアラブの一部と和解できれば国際社会の中での活路が開けると考えました。
そこをうまい具合に当時のトランプ大統領が取り持ったのです。
このあと、スーダンやモロッコといった、アフリカのイスラム教の国も続きます。
パレスチナ問題が解決するまではイスラエルを認めないと言っていた「アラブの大義」の鉄則が崩れていったわけです。
こうしたことに対して、パレスチナ人は裏切りだと怒りました。

イスラエルとアラブ諸国の一部が和解した、対立関係に風穴を開けたという点では評価できる面もあります。
一方、パレスチナ問題が解決しないまま置き去りにされてよいのかと思っている人たちもいて、プラスの面とマイナスの面があります。
物事がより複雑になってしまったのです。
国際機関はどう対応してきたのかと言うと、国連の機関が懸命に、人道支援などの努力をしても、実際に物事が決まる安全保障理事会ではアメリカがイスラエルを擁護するわけです。
イスラエルがガザ地区に侵攻するたびに、国連の安全保障理事会ではアラブ諸国が非難決議を採択しようとしますが、アメリカが拒否権を発動して、それをつぶしてきました。
ガザでは、イスラエルが軍事攻撃を続け、大勢の人が亡くなるのを目撃した人もたいさんいます。
現状の国連のシステムでは現地の悲惨な状況を救うことは難しいようです。
パレスチナ問題は、世界が置き去りにしているのが現状ですが、はっきりしているのは、ガザ地区には、今も必要最低限の生活さえできない人たちがいるということです。
希望すらなくなり、イスラエルに占領され抑圧された状態で暮らすのが正常かといえば決してそんなことはありません。
また、ヨルダン川西岸では、入植地がまだら状に広がっていて、40万人のユダヤ人入植者がこの土地に住み続けています。
本来パレスチナ人が望んでいた土地を取り戻す見通しは到底たたない、将来像が描けなくなっているのです。

今回の「ハマス」による大規模な攻撃がイスラエル側に多くの死傷者を出し人質が取られていることは、決して許されるものではありません。
一方で、イスラエルによる占領やガザ地区の封鎖が続いてきたことが、今回のような悲劇を招いたというのも事実です。

パレスチナ問題の解決がいかに困難だとしても、それを放置し続ける限り、将来にわたって混乱や対立の火種が残り続けています。
国際社会はいまその現実と改めて向き合わなければならないのだと思います。
私も、いろいろな文献を調べていくうちに、非常に複雑で難しい問題だと感じました。
だけど、たった一つしかない命の取り合いである戦争だけは一刻も早くやめさせなければなりません。

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